あほだら‐きょう〔‐キヤウ〕【×阿×呆×陀羅経】
あほだら経
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 15:04 UTC 版)
あほだら経(あほだらきょう、阿呆陀羅経)は、軽快な早間口調の俗謡。幕末期から明治期に多く見られた。〽仏説あほだら経……」という歌い出しの戯れ文句で始まる。
注釈
- ^ 復刻版あり
- ^ 旧暦の上巳(3月3日)は新暦(グレゴリオ暦)では3月下旬から4月下旬。桜田門外の変が起きた安政7年3月3日は1860年3月24日にあたる。
- ^ 道中飛脚=彦根藩井伊家の江戸藩邸と国許の間の飛脚か。彦根藩だけではなく、当時は江戸と京都の間の連絡が密に行われており、東海道中の飛脚は絶え間がなかった。
- ^ 伯耆の噂=安政の大獄に対して、円満に処理しようとした板倉勝静が寺社奉行を解任され、代わりに井伊直弼の意向に忠実な松平宗秀(松平伯耆守)が起用されたことか。
- ^ 讃岐の騒ぎ=久我家の家臣である春日潜庵(春日讃岐守)が安政の大獄で処分を受けたことか、あるいは井伊直弼に近かった松平頼胤(松平讃岐守)が桜田門外の変後に蟄居を命じられたことか、不明。
- ^ 朝廷から徳川斉昭に下された戊午の密勅への対応をめぐって、水戸藩内では密勅の実行を主張する勢力(尊皇激派)と幕府の意向に従って密勅の返納を主張する勢力(尊皇鎮派および諸生党)が対立し、尊皇激派の一部が桜田門外の変の襲撃者となった。「常陸の宝蔵」とは水戸藩の所領である常陸国内の密勅の保管場所を意味する。
- ^ 親父=井伊大老。
- ^ 薩摩の助太刀=桜田門外の変の襲撃者には水戸藩の脱藩者のほか、薩摩藩の脱藩者である有村次左衛門も参加していた。井伊直弼を最終的に殺害したのは有村である。
出典
- ^ 前田勇編『上方演芸辞典』では混同を戒める記述があるが、実際はほぼ同種と見てよい。
- ^ 定本日本浪曲史p.54「滝づくし」が魯文、「虫づくし」が貞園
- ^ 浪曲関連書に頻出するものの、事実関係は未確認で、現状は浪花節の世界で有名な逸話に留まる
- ^ 死亡記事が、東京朝日新聞 明治34年4月14日に、また東京朝日新聞 明治33年8月12日,13日にも記事
- ^ 前田「上方演芸辞典」
- ^ 菊谷栄「民謡六大学」『大衆芸能資料集成 第九巻 舞台芸2 大衆演劇1』p.83-108。なお第13景 阿呆陀羅経 の前にセリフがある。
- ^ 正岡容「東京恋慕帖」ちくま文庫p.240-242
- ^ れきおんの記述
- ^ ワッハ上方『上方演芸大全』p.363
- ^ (1940年、情報局も関わり、発表された官製浪曲「愛国浪曲」と立場が正反対で)情報局は「この怪文書は、「揶揄的筆致により全く無責任なる態度を以て情報局当局の一大失態並に宣伝方策の拙劣に係り我が国を危殆滅亡に導きたりと為すもの」と批判された。そして「何等の根拠なき事実に拠り当局を歪曲誹謗し国民をして疑惑の念を抱かしむるのみならず、時局下体内外的にも極めて悪影響ありと認められ」るとして、八月二日付で発禁処分された。情報局の情報官は、内務省の検閲も兼任していた。そのため、この率直な批判が胸に刺さったのかもしれない。」と否定した。p.289.辻田『空気の検閲』
- ^ 音楽評論家中村とうよう『中村とうようの収集百珍』75.豊年斎梅坊主
- ^ 小沢昭一『ものがたり 芸能と社会』p.206
- ^ 出典:『司馬遼太郎短篇全集〈8〉』
- ^ 田辺尚雄『明治音楽物語』p.27-28による。「父の本岡家、養父田辺家、叔父の手島精一などの手写しの珍しい遺物資料から選択収録した」とある
[続きの解説]
「あほだら経」の続きの解説一覧
- 1 あほだら経とは
- 2 あほだら経の概要
- 3 概要
- 4 影響
- 5 詞章の一例
「あほだら経」の例文・使い方・用例・文例
- あほだら経のページへのリンク