山崎正三・都家文路とは? わかりやすく解説

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山崎正三・都家文路

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/08 00:15 UTC 版)

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山崎正三・都家文路(やまざきしょうざ・みやこやふみじ)は、昭和期に活躍した夫婦漫才音曲漫才)。

戦後あほだら経を売りにした数少ない夫婦のコンビ。あほだら経の特徴であった小さな三つの木魚を叩いていた。1934年にコンビ結成。正三が亡くなるまでコンビを続け、戦後は吉本興業の花月などで活動していたが、最晩年はキタの東宝系の演芸場「トップホット」に出演。

メンバー

  • 山崎正三(やまざきしょうぞう、後にしょうざ、1906年 - 1983年11月6日)本名は山崎源次郎。立ち位置は向かって左。
大阪府の生まれ。
あほだら経の初代若松家正右衛門の門下[1]。色々コンビを変えている。初名を若松家正蔵。後に山崎正三を名乗る。
元は「しょうぞう」と読んでいたが、周りから「しょうざ」と読まれたので後に「しょうざ」と名乗る。しかし、最晩年は元の読み方「しょうぞう」としていた。
関西芸能親和協会副会長、1982年人生幸朗の没後は会長。
洋服も多かったが、ワッハ上方には着物を着てあほだら経を演じる映像がある。
  • 都家文路(みやこやふみじ、1913年 - 没年不詳)本名は山崎(旧姓不明)文子。立ち位置は向かって右。
ぼやき漫才の都家文雄・静代の門下[2]。色々コンビを変えている。
和服。

エピソード

  • 正三は背中に未完成の花魁の刺青が彫られていた。これは10代のころに巡業先で博打をした際、博打に負けた相手が彫師で借金のかたで刺青を彫らされる。その後も借金をして払えなくなり刺青が増え始めたが、後に彫師の元を離れたため、結局未完成の刺青だけ残った。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ 他に、若松家正八・前田すみ子、瀬戸圭子・浅間保、2代目若松家正右衛門(2代目正右衛門は若松家老松・姫松の老松)、若松家艶子・正坊がいる。
  2. ^ 他に、人生幸朗・生恵幸子、都家文広、東文章・こま代がいる。

関連項目

参考文献

  • 「現代上方演芸人名鑑」(1980年、少年社)



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