桜田門事件の実行犯
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1930年12月、心機一転すべく中華民国上海市に渡った。鉄工所永昌公司で職工となったり、閔行区の蓄音機店で営業員として働くが、賃金が安いといってすぐに辞めてしまった。就職が思い通りにいかないときに同地の韓国人より上海市内に大韓民国臨時政府の庁舎があると聞き、1931年1月、所在地を訪問。ちょうどこの年に結成されたばかりの韓人愛国団の秘密会議が行われており、下駄履きと日本人風の出で立ちで日本語を流暢にしゃべる李奉昌は、日本の密偵だと警戒されて追い出されたが、後日、潜入する工作員にはもってこいだということで逆に金九にスカウトされる。しかし周囲はしばらく素性のよく分からぬ李を疑い、宴席を設けて酒に酔わせ、本音を引きだそうとした。酔って大言壮語した李は、昭和天皇を処断すべきだなどと口走り、自分は天皇のそばまで行ったことがあり、そのときは武器を持っていなかったからできなかったが容易にできたと熱っぽく語ったため、それならばと、後日計画が立ち上げられた際に、暗殺計画を実行する役目が李に与えられた。 12月12日、李は抗日テロ組織韓人愛国団に正式に入党した。金九より支度金として300ドル、武器として手榴弾が渡され、12月17日、氷川丸に乗船して渡日し、12月19日20時、兵庫県神戸市に到着する。その後大阪に入り、大阪市内の木賃宿に泊る。12月22日に東海道本線の超特急燕号で上京し、東京市浅草区松清町の尾張屋旅館に宿泊する。しかしこの間に酒と漁色に耽り、資金を使い果たしてしまったので、上海に電報でさらに100圓を送金してもらった。ひたすら実行の機会を窺っていたところ、12月28日付の東京朝日新聞の記事により翌1932年1月8日に東京市外代々木練兵場において陸軍始観兵式が挙行されることを知り、天皇の行幸があるとわかって、この日に決行することを計画した。 1932年1月8日、犯行の前々日(1月6日)にバス運転手菅原久五郎から偶然入手した憲兵曹長「大場全奎」の名刺を使って観兵式の警戒網を2回突破した。赤坂付近で襲撃する予定が、待っている間に付近の一つ木食堂で日本酒を飲んでいて鹵簿をやり過ごしてしまい、李は慌てて円タクを呼び止めて三宅坂の陸軍参謀本部前で降り、そこから走って警視庁正門まで行って奉拝者の列に混ざったという次第であった。李はどの御料馬車に天皇が乗車しているかを知らなかった。第一両目をやり過ごしてしまい、一木喜徳郎宮内大臣が乗車する第二両目に手榴弾を投げ付けた。実際には昭和天皇は第三両目の御料馬車に乗車しており、手榴弾はその32メートルも前方で炸裂したが、威力が弱く、何事もなかったように通過。天皇は車内にあって音を聞いた程度だった。後に第二両目の馬車には、破片で小さな穴が空いてることが見つかり、騎乗随伴していた近衛騎兵1人とその乗馬と馬車馬の馬2頭が負傷していたことがわかった。李はその場で逮捕され、襲撃は失敗に終わった。 詳細は「桜田門事件」を参照 同年9月30日、大審院(裁判長和仁貞吉)にて大逆罪(旧刑法第73条)として死刑判決が下り、10月10日に市ヶ谷刑務所にて絞首刑に処された。
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