米倉里矩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/10 14:28 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年2月) |
時代 | 江戸時代中期 |
---|---|
生誕 | 享保18年8月6日(1733年9月13日) |
死没 | 寛延2年3月6日(1749年4月22日) |
改名 | 鍋三郎(幼名)、里矩 |
戒名 | 桃雲元珠真髯院 |
墓所 | 東京都港区西麻布の長谷寺 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗、家重 |
藩 | 武蔵金沢藩主 |
氏族 | 米倉氏 |
父母 | 米倉忠仰、堀井氏娘・香雲院 |
子 | 昌晴 |
米倉 里矩(よねくら さとのり)は、江戸時代中期の大名。武蔵国金沢藩2代藩主。六浦藩米倉家5代。
略歴
享保18年(1733年)8月6日、初代藩主・米倉忠仰の長男として誕生。母は堀井氏娘(香雲院)。
享保20年(1735年)5月18日、父の死去により家督を継いだ。忠仰の実兄で伯父・柳沢吉里より偏諱を受けて里矩と名乗る。しかし、里矩の年齢を9歳と詐称していたことが判明したため、幕府は重臣らを柳沢吉里に預けるなどの処罰を行った。年齢詐称は、里矩があまりに幼少であったことから、家督相続を幕府に認められないことを恐れたためと考えられる。延享3年(1746年)3月に9代将軍・徳川家重に御目見したが、寛延2年(1749年)3月6日に17歳で死去した。
子が無かったため、養子・昌晴(米倉昌倫の次男)が跡を継いだ。
|
固有名詞の分類
- 米倉里矩のページへのリンク