藤原景舒とは? わかりやすく解説

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藤原景舒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/08 08:56 UTC 版)

 
藤原 景舒
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
官位 正四位下[1]伊予守[注 1][2]
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 藤原北家長良[1]
父母 父:藤原国章、母:伊予守能守の娘[注 2][1]
兄弟 景舒、君章、景斉源惟正の室[1]藤原兼家の妻[4]
源遠古の娘[1]
景章、忠家[1]、藤原則友の妻[5]
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藤原 景舒(ふじわら の かげのぶ)は、平安時代中期の貴族従三位藤原国章の子[6][1]

経歴

天徳4年(960年天徳内裏歌合で念人を務めた童子の一人として名が見える[7]永観2年(984年)娘を五節舞の舞姫として殿上に献じている[注 3][6]

円融朝から一条朝にかけて、伊賀守加賀守播磨守など受領を歴任[9][10][2]六位蔵人を務めていた時期もあり、天皇側近の受領階層だったことがうかがえる[6][11][1]。また兄弟の景斉とともに藤原実資家人でもあった[12]

一条朝前期の永延3年(989年)播磨守であった景舒は、伊予守源清延と交替する形で伊予守に遷る[注 1][2]。この人事は、寛弘7年(1010年)に尾張守大江匡衡丹波守高階業遠が官職を交替した際に先例として挙げられている[13]。しかし、翌永祚2年(990年)には藤原道頼が伊予守に任ぜられており[14]、景舒は短期間で伊予守を去ったとみられる。

官歴

系譜

尊卑分脈』による[1][5]

  • 父:藤原国章
  • 母:伊予守能守の娘[注 2]
  • 妻:源遠古の娘
    • 男子:藤原忠家
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原景章
    • 女子:藤原則友の妻(藤原国成の母)

脚注

注釈

  1. ^ a b 尊卑分脈』は景舒の官職に伊予介を挙げている[1]
  2. ^ a b 系図纂要』は母父の名を「能安」としている[3]
  3. ^ 残り3名は藤原朝光の娘、藤原佐理の娘、一名不明[8]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 『尊卑分脉』, p. 169.
  2. ^ a b c d 『大日本史料』2-1, p. 382.
  3. ^ 『大日本史料』1-23, p. 243.
  4. ^ 『大日本史料』2-5, p. 28.
  5. ^ a b 『尊卑分脉』, p. 302.
  6. ^ a b c 服部 2011, p. 339.
  7. ^ 『大日本史料』1-10, pp. 626–635.
  8. ^ 『大日本史料』1-21, p. 146.
  9. ^ a b 『国司補任』3, p. 41.
  10. ^ a b 『国司補任』4, p. 208.
  11. ^ 『大日本史料』1-21, pp. 146–147.
  12. ^ 久下 2008, p. 10.
  13. ^ 『大日本史料』2-6, p. 640.
  14. ^ 『大日本史料』2-2, p. 429.
  15. ^ 『村上天皇御記』
  16. ^ 『大日本史料』1-11, p. 324.
  17. ^ 『尊卑分脉』, p. 168.
  18. ^ 『親信卿記』
  19. ^ a b 『小右記』

参考文献




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