松平頼永
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 正徳4年11月27日(1715年1月2日)[1] |
死没 | 享保20年8月25日(1735年10月11日) |
別名 | 通称:織部 |
諡号 | 源哀 |
戒名 | 不退院正誉定嶽聚禅 |
墓所 | 茨城県常陸太田市の瑞龍山 |
官位 | 従四位下、掃部頭、侍従、播磨守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗 |
藩 | 常陸府中藩主 |
氏族 | 石岡松平家 |
父母 | 父:松平頼明、母:林氏 |
兄弟 | 頼永、武元、遠山友明、頼幸、亀井茲胤、織田信右正室、松平信友正室 |
妻 | 正室:菊姫(内藤義英の娘) |
松平 頼永(まつだいら よりなが)は、江戸時代中期の大名。常陸国府中藩4代藩主。官位は従四位下・侍従、播磨守
略歴
正徳4年(1714年)11月27日、3代藩主・松平頼明の長男として誕生(表向きは正徳3年(1713年)生まれ[1])。母は林氏。任官叙位前は、通称に織部を称する。
享保18年(1733年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし2年後の享保20年(1735年)8月25日に22歳(表向きは23歳)で死去した。嗣子がなく、跡を異母弟の頼幸が継いだ。
年表
※日付=旧暦
- 1731年(享保16年)12月23日、従四位下掃部頭に叙任。
- 1733年(享保18年)10月、家督相続し、常陸府中藩(茨城県石岡市)主を継承する。 10月28日、播磨守に転任。 12月28日、侍従兼任。
- 1735年(享保20年)8月25日、卒去。法名は不退院正誉定嶽聚禅。諡号は源哀。墓所は茨城県常陸太田市の瑞龍山。
系譜
父母
- 松平頼明(父)
- 林氏 - 側室(母)
正室
- 菊姫 - 内藤義英の娘
養子
- 松平頼幸 - 実弟
脚注
- 松平頼永のページへのリンク