播磨鑑とは? わかりやすく解説

播磨鑑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/21 20:44 UTC 版)

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播磨鑑』(はりまかがみ)は江戸時代地誌

著者は播磨国印南郡平津村(現・兵庫県加古川市米田町平津)の医師・暦算家の平野庸脩(ひらの ようしゅう)で、完成時期は不明[1]

概要

内容

版本(出版物)ではなく、自筆手稿本である。平野が長年にわたって、播磨国にまつわる、景勝地地名、城地、神社仏閣旧跡、人物、風俗などについて採取した情報が記録されている。『播磨国風土記』『論語』『万葉集』『太閤記』など、当時収集しうるかぎりの100近い地方史文献を参照したとされる。

各種伝本・写本が多く、その中で酒井家への献上本がよく体裁を整えているとされている。

成立時期

その完成時期は定かではなく、1762年宝暦12年)に書かれたとする書誌学的解題もあるが、『播磨鑑』は版本(出版物)としてではなく、自筆手稿本として存在したため異本各種があり、「宝暦12年」説は、一本の自序に書かれた「宝暦十二年」という記載を指しているに過ぎない。最初の出版は明治42年であるが、平野庸脩は死ぬまでその推敲追加作業をやめなかった。このため、『播磨鑑』は永遠に完成しない草稿ということができる[1]。1762年は、酒井家献上本の自序に明記されているものである。明石城の記事において、享保4年(1719年)に記述した旨が述べられているため、少なくとも享保年間、早ければ元禄年間より著作を始めたと考えられている。

異本の中には、宝暦12年以降に記載されたと考えられる文章があるため、平野は献上後も推敲・追加の作業を行っていたものと考えられている。

史実性

平野は記載する際に、自明のことや平野自ら検証して確定したことと、伝聞・伝承にとどまることとについてそれぞれ記述する際、文章表現を明確に使い分けている(伝聞・伝承については「~と云う」と記載している)。

そのため『播磨鑑』に確定的な記載があり、現在他に傍証文献がない事柄については、逸失文献があると考える余地がある。

宮本武蔵研究における播磨鑑

播磨鑑と宮本伊織

平野庸脩の居住地、平津村は、宮本伊織が生まれたという播磨国印南郡米田村(現・兵庫県高砂市米田町米田)の徒歩10分以内の隣村である。平野は地元の名士である伊織のことについて『播磨鑑』で詳細に記述している。

『播磨鑑』での伊織に関する記述については、確定と伝聞を使い分けて記述しているが、伝聞の部分(例として、「子供のころ天狗にさらわれたと云う」)のみを採って、『播磨鑑』全体の史実性が低いと考える意見がある。

また、確定的事項として記述されている部分については、伊織自身の『泊神社棟札』と一部に不一致(先祖代々米田村にいるのか、親の代で米田村に来たのかで相違点がある、など)がある。この点については、伊織が泊神社の社殿再建の願主となって、再建後に三十六歌仙の額他を奉納した事を記述しているので、平野は棟札の内容を知った上で、自ら検証したことを記載したとも考えられており、他の二次史料に比べると信頼性が高いとされている。

播磨鑑と宮本武蔵

伊織に関する記述に先立って、その養父・宮本武蔵についても記載されている。

そこでは、武蔵の出生地について「宮本武蔵 揖東郡ノ邊、宮本村ノ産也」(もしくは「宮本武蔵 揖東郡鵤ノ荘、宮本村ノ産也」)と断言している。宮本村は現在の兵庫県揖保郡太子町宮本である。

このことより、少なくとも平野は、武蔵の出生地は自明のこと(もしくは検証によって確定したこと)と考えていたことがうかがわれる。ただし、『播磨鑑』では、これに異説がある、と明記して、異説については別途記載する旨を述べている。しかし現時点では、平野が異説を記述した文献は見つかっていない。

武蔵の出生地については、一次史料においては、播磨国出身との記述しかない。二次史料のうち、成立時期の早い部類に含まれる『播磨鑑』でのこの記述は、武蔵の出生地論争に一石を投じている。

脚注

  1. ^ a b 宮本武蔵 資料篇 関連史料・文献テクストと解題・評注”. 2018年7月19日閲覧。

関連項目

外部リンク


播磨鑑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 04:48 UTC 版)

宮本伊織」の記事における「播磨鑑」の解説

播磨地誌『播磨鑑』に伊織記事がある。 宮本伊織 伊織宮本武蔵養子米田村産なり、父を甚兵衛といひ、元は三木侍なりしが別所落城の後米田村来り伊織生む、(「天狗伝説」略)時に赤石城主小笠原家宮本武蔵という天下無双兵術者を召抱えられ客分にてありしが、伊織十六歳の時其家に召使はれしに器量勝れたる故武蔵養いて子と為せり、後主豊前小倉所替にて従い下りける、時に島原一揆蜂起の節戦場出で大功あり、其賞として三千石賜はる、始は無役なりしが後には家老職となれり、子孫ゆかりの者米田村にあり、其後伊織氏宮たるにより泊大明神社頭拝殿舞殿舞台門守悉く建立せり、即ち石灯籠作事奉行人等銘彫現然なり、即ち泊の古宮米田村に曳き取り建立せられ内宮と号す、泊には堂上家歌仙三十三十六歌仙)其外珍品数多く寄付せらる、後年に至るまで其子孫小倉より江戸往来の節は泊社へ社参ありしと也、伊織の母加東郡垂井宮脇村の人也、依て伊織久しく宮脇村居たりといふ。 『小倉宮本家系図』には、武蔵伊織同姓叔父・甥の間柄となっているが、伊織地元地誌書かれていないことが注目される武蔵伊織養子にしたのは、屋敷召使っていて器量勝れていたからであるとしている。伊織出自経歴事象子孫の事、及び子供のころ伊織天狗さらわれた天狗伝説まで詳しく書いている所は、編著者平野庸修が伊織と同じ印南郡の人であることから、同郷出身偉人としてよく知っていたものであろう。また文中に、米堕に今も子孫田原氏は代々米田庄屋)が居住していると紹介していることから、隣村平津医者であった平野は、田原の子孫を訪ねて調査したものと考えられるまた、別項目で、武蔵伊織並べて紹介し、わざわざ同じ播磨内の別の出自として紹介している。 宮本武蔵 揖東郡の邊、宮本村の産也。若年より兵術好み諸国修行し天下にかくれなく、即ち武蔵流と云て、諸士門人多し然れども諸侯仕えず明石到り小笠原右近将監侯に謁見し、其時、伊織養子とし、其後、小笠原侯、豊前小倉に赴き玉ふとき、同伴し養子伊織五千石を賜はりて、大老職に仕官す。今に其子孫三千石にて家老職と云。此宮本武蔵こと、佐用郡平福の住、風水翁の説と相違有り別書に之を記す。 宮本伊織 印南郡米田村の産也。宮本武蔵養子とす舊蹟の部に委く記す。 伊織の「舊蹟(ふるあと)の部に委く記す」というのは先の文である。この地誌書かれ宝暦十二年(1762年)まで、播磨地方武蔵伊織と同じ田原氏の出自であるという伝承はなかったようである。

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「播磨鑑」を含む「宮本伊織」の記事については、「宮本伊織」の概要を参照ください。

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