木下秀定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/07 15:57 UTC 版)
木下 秀定(きのした ひでさだ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は助兵衛尉。織田信長の家臣で、のちに羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕える。但馬国豊岡城主。秀吉の縁戚にあたる老臣で、茶の湯にも通じた人物と伝えられる[1]。
生涯
はじめ織田信長に仕え、のちに秀吉の部将として各地を転戦した。天正初年頃の宗易と羽柴秀吉の連署状があり、その宛所として「木下助兵衛尉御宿所」と記される[2]。この書簡は秀吉と利休の花押が並び立つ珍しい例とされる。文中では利休が助兵衛尉の茶器の見識を高く評価しており、「さりとは、御目利きとくに存候」と賞していることから、特に井戸茶碗や茶釜に対する高い鑑識眼をもっていたとされる[2]。
天正9年(1581年)の鳥取城の戦いでは、秀吉軍の右翼・大平に羽柴秀長を置き、平地部には荒木兵太夫や木下助兵衛らが配置された[3]。この時期には既に一軍を率いる将として重きをなしていた[1]。
本能寺の変後に宮部継潤の但馬豊岡城の城主を継承した。『太閤記』および『柴田退治記』には「木崎城主木下助兵衛尉」の名が見え、賤ヶ岳の戦い(1583年)において秀吉方として奮戦したとされる[4][5] [1]。
さらに『太閤記』および『谷森文書』などでは、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで戦死したとも伝わるが、詳細は不明である。
脚注
- ^ a b c 小学館 1985, p. 448.
- ^ a b 河原書店 1961, p. 18.
- ^ 新人物往来社 1980, p. 217.
- ^ 豊岡市立郷土資料館 1993, p. 58.
- ^ 豊岡市立郷土資料館 1993, p. 89.
参考文献
- 『但馬豊岡城:豊岡城とその城下』 豊岡市立郷土資料館、1993年、58・89頁。
- 『利休の書簡』 河原書店、1961年、18頁。
- 『利休の手紙』 小学館、1985年、448頁。
- 『織田信長のすべて』 新人物往来社、1980年、217頁。
- 木下秀定のページへのリンク