名称の変遷と官歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 00:30 UTC 版)
通説では幼名を小竹(こちく)と称したとされるが、確認できる文書はない。その後、小一郎(こいちろう)と改称し、兄・秀吉に仕官した時には木下小一郎長秀と名乗った。 秀吉が木下から羽柴に名字を改めたのは天正元年(1572年)以降であるが、秀長が発給した文書で羽柴を使用した初見は天正3年(1575年)11月11日付の発給文書からであり、羽柴小一郎長秀と署名している。次に(通称を)小一郎から美濃守へ代えているが、自己発給文書では小一郎の終見は天正10年(1582年)12月25日付、美濃守の初見は小牧・長久手の戦いの頃である天正12年(1584年)5月4日付である。他の文書から、賤ヶ岳の戦い後の論功行賞の一環により天正11年(1583年)の5月から7月頃と考えられる。更に天正12年(1584年)6月8日から9月12日までの間に長秀から秀長へ改名し、以後、死ぬまで秀長を使用した。これは、小牧・長久手の戦いにより信長の実質的後継者としての地位を兄・秀吉が揺るぎないものとしたため、秀の字を上に持ってきたものと考えられる。 官位については、美濃守以降、天正13年(1585年)10月4日に従四位下参議、天正14年(1586年)10月4日に従三位権中納言、天正15年(1587年)8月8日に従二位権大納言(徳川家康と同位同日に任官)に昇進して、以後天正19年(1591年)1月に没するまで代わることはなかった。また、天正16年(1588年)4月15日付で聚楽第へ行幸した天皇に諸大名が提出した起請文では、唯一豊臣姓を署名している。
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