名称の変遷と混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 01:02 UTC 版)
形状を現す大山・大仙、被葬者を表す仁徳、これに続けるものに学術的な古墳、陵墓としての陵・天皇陵・御陵・帝陵と多数の組み合わせが生じ、混乱している。また、併記する場合も多いため、より多種にわたってしまっている。江戸時代の絵図等では「仁徳天皇陵」「大山陵」の表記が見られる[要出典]。 主因は仁徳天皇の墓かどうかの論争にあり、1971年(昭和46年)以降「仁徳陵」の名称で呼ぶことが提唱された。しかし、これでは仁徳天皇の墓であることを否定したことにはならないため、1976年(昭和51年)以降、より学術的な遺跡の命名法に則り「大仙陵古墳」の使用が始まった。 宮内庁は仁徳天皇の墓に比定しており、地図上では「仁徳天皇陵」が採用されている(かつては「仁徳帝陵」を採用したものが多かった)。また、国民的にも(近畿地方、中でも地元大阪府では、大仙古墳よりも仁徳天皇陵のほうが広く認知されている)国際的にも定着した名称を重んずる意見も多数あり、学術用語としては流動的でいまだに確定しておらず、いずれもが正式名称として使用可能である[要出典]。 現在では、堺市が町名に大仙を採用したことから(大仙町、1929年(昭和4年)より)、大山よりも大仙が定着している。また、仁徳御陵・仁徳帝陵よりも仁徳天皇陵が定着しているが、堺市民の間では単に御陵と呼ばれることが多く、駅(御陵前停留場)、道路(御陵通)、町名(御陵通、1933年(昭和8年)より)などの名称にもなっている[要出典]。
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