秋篠伝左衛門とは? わかりやすく解説

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秋篠伝左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/09 23:33 UTC 版)

秋篠 伝左衛門(あきしの でんざえもん、永正15年〈1518年[1] - 天正20年4月26日1592年6月6日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての人物。豊臣秀長(羽柴秀長)の家臣で[2]、秀長の別妻・摂取院光秀の父[3]。伝左衛門尉(でんざえもんのじょう)[2]、二位法院[2]秋篠内記は伝左衛門を指すともいう[4][5]。なお、秋篠伝左衛門という名前の人物の存在を否定する見方もある(後述)。

生涯

秋篠氏は大和国国人[6]。『和州諸将軍伝』では、「秋篠内記」は中坊氏(中坊飛騨守秀祐[4])の麾下にあったとされ[7]、『和洲志』においても「秋篠内記」は筒井順慶の内衆である中坊飛騨守秀国に属したとされている[8]

『庁中漫録』に記載される興福院(弘文院)の縁起によると、伝左衛門(「秋篠の某」)は筒井順慶の麾下にあって、弘文院村を領していた[9]。伝左衛門は順慶の姉妹婿である窪庄伊豆守の妹婿であり、伝左衛門が弘文院を建てると、伊豆守の妹(伝左衛門の妻の姉妹)の自慶院心慶比丘尼が院主になったという[9]。同縁起では、秀長の妻が「秋篠の娘」であることや、その娘が秀長の死後、比丘尼となって「摂取院光秀」を名乗り、弘文院に入ったことなどが述べられている[9]

天正13年(1585年)、羽柴秀長が大和郡山城に入り[10]、天正15年(1587年)または天正16年(1588年)、伝左衛門の娘の摂取院が秀長の娘(のちの羽柴秀保妻)を生んだ[11]。伝左衛門は「沙弥」や「入道」と書かれることから、秀保妻が生まれた直後には出家していたとみられる[1]。また、秀保妻の誕生に伴ってか、二位法院に任じられており、後に死去した際の記事に「郡山伝左衛門入道二位法印」と記されている[12]

伝左衛門は秀長の側近の横浜良慶小堀正次と共に郡山城で活動していたが[13]、天正17年(1589年)1月、「伝左衛門殿」が病気になっているとの記事が『多聞院日記』に載る[14]。この時の病は平癒したとみられる[10]

天正20年(1592年)4月26日、伝左衛門は死去した[15]。享年75[16]法名は顕照院殿二位法印雪渓宗盛居士[17]

異説

和田裕弘は、『多聞院日記』などに記される「伝左衛門」を秀長の正室・慈雲院の父であるとし、側室の父「秋篠の沙弥」と別人とする[18]。和田によると、伝左衛門の名字は神戸で、は秀好という[19]

毛利家の記録である『輝元公御上洛日記』の天正16年(1588年)9月6日条には、秀長家臣筆頭として「諸大夫神辺(戸)伝左衛門」とある[20]。また、秀長の直臣・上坂意信に送られた陣中見舞いの書状(年未詳6月7日付)の差出人として「神伝左秀好」(神戸伝左衛門秀好)の名があり、秀好が留守居だったことが記されている(『上坂家文書』)[21]。『院中御湯殿上日記』天正18年(1590年)1月26日条には、美濃守(秀長)衆の「かんへ入たう(入道)せんゑもん」が法印を許されたことに対しお礼を進上したことが記されており、この「せんゑもん」は伝左衛門を指すと考えられる[21]。この他、北条攻めを行う豊臣秀吉に陣中見舞いを贈り、天正18年(1590年)と推定される7月6日付で礼状を送られている「神戸二位法印」がいるが、これは神戸伝左衛門秀好のことであると和田は述べる[22]

秀長の菩提寺である大徳寺大光院の過去帳では、戒名「顕照院殿前二位法印雪渓盛公居士」の人物は天正20年(1592年)4月27日に死去したとされ、さらに「慈雲院殿父」と記されている[22]

また、出自については、尾張の神戸氏であると考えられる[23]

脚注

  1. ^ a b 黒田 2025, p. 256.
  2. ^ a b c 黒田 2025, p. 252.
  3. ^ 柴 2024, pp. 36–37; 黒田 2025, pp. 252–255.
  4. ^ a b 新人物往来社 1996, p. 59.
  5. ^ 大橋宗舟「長谷寺秀長公寄進の燈籠に就て」『史迹と美術』第252号、140–141頁、1955年。doi:10.11501/6067135 
  6. ^ 新人物往来社 1996, p. 58.
  7. ^ 奈良県 編『大和志料 上巻』奈良県教育会、1914年、513頁。全国書誌番号:43018601https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950813/278 
  8. ^ 籔景三『筒井順慶とその一族』新人物往来社、1985年、155頁。 ISBN 4-404-01281-0 
  9. ^ a b c 黒田 2025, pp. 253–255.
  10. ^ a b 黒田 2025, p. 255.
  11. ^ 黒田 2025, p. 257.
  12. ^ 黒田 2025, pp. 255–256.
  13. ^ 柴 2024, p. 36.
  14. ^ 辻 1938, p. 162; 黒田 2025, p. 255.
  15. ^ 辻 1938, p. 346; 黒田 2025, p. 255.
  16. ^ 辻 1938, p. 346; 柴 2024, p. 36; 黒田 2025, p. 255.
  17. ^ 辻 1938, p. 365; 黒田 2025, pp. 255–256.
  18. ^ 和田 2025, pp. 191, 197–198.
  19. ^ 和田 2025, pp. 191–193.
  20. ^ 和田 2025, pp. 191–192.
  21. ^ a b 和田 2025, p. 192.
  22. ^ a b 和田 2025, p. 193.
  23. ^ 和田 2025, pp. 233–234.

参考文献




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