大善院 (毛利秀元室)
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大善院(だいぜんいん、天正16年〈1588年〉 - 慶長14年11月29日〈1609年12月25日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。豊臣秀長(羽柴秀長)の次女で、毛利秀元の正室。本名はきく[1]。
生涯
天正16年(1588年)に生まれる[2]。羽柴秀長の次女とみられ[3]、姉に羽柴秀保の妻がいる[4]。生母は不明で[5]、秀長の正妻の慈雲院や別妻の摂取院とは別の女性の子であるとみられる[6]。後述の秀保の婚儀の際の記録に姿が見えないことから、大善院の生母は女房衆という立場であり、秀長の妻でなく妾であったと考えられる[7]。
文禄3年(1594年)3月に羽柴秀保と姉の婚儀が行われたが、その際、大善院(「御きくさま」)は慈雲院に続いて進物を贈られていた(『駒井日記』)[8]。このことから、大善院が慈雲院に次ぐ地位にあった様子がうかがえ、大善院が慈雲院の養女となって、秀長家の嫡女という立場に就いていたことが分かる[8]。
文禄4年(1595年)2月、毛利輝元の養子だった毛利秀元へと嫁いだ(『北野社家日記』)[9]。この時、大善院は羽柴秀吉の養女となっている[10]。この婚姻の直前には、羽柴秀俊(小早川秀秋[11])が毛利家の分家である小早川隆景の婿養子となって、毛利輝元の養女と結婚していた[12]。大善院の結婚も、毛利家と婚姻関係を築くための一環であると考えられる[12]。
慶長14年(1609年)11月29日、22歳で死去した[13]。死去した場所は京都であるという[14][15][16]。法名は大善院月㵎宗照[15][16](月澗宗照[17][18])。秀長の菩提寺である京都大徳寺の大光院に葬られ[19]、その墓は1996年(平成8年)時点で現存している[20]。牌所は功山寺[15]。
脚注
- ^ 黒田 2025, p. 259.
- ^ 柴 2024, p. 39; 黒田 2025, pp. 259, 262.
- ^ 黒田 2025, pp. 259, 262.
- ^ 柴 2024, pp. 38–39; 黒田 2025, pp. 257–259, 262.
- ^ 新人物往来社 1996, p. 221; 柴 2024, p. 39; 黒田 2025, p. 262.
- ^ 柴 2024, p. 37; 黒田 2025, p. 262.
- ^ 黒田 2025, p. 262.
- ^ a b 黒田 2025, pp. 259–260.
- ^ 柴 2024, p. 39; 黒田 2025, pp. 259–260.
- ^ 柴 2024, p. 39; 黒田 2025, pp. 261, 263.
- ^ 黒田 2025, pp. 174–175.
- ^ a b 黒田 2025, p. 263.
- ^ 新人物往来社 1996, p. 221; 柴 2024, p. 39; 黒田 2025, p. 261.
- ^ 新人物往来社 1996, p. 221.
- ^ a b c 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治 監修、防長新聞社、1966年、18頁。全国書誌番号:73004060。
- ^ a b 長府史編纂会 編『復刻 長門長府史料』防長史料出版社、1974年、536頁。全国書誌番号: 73012084。
- ^ 東京帝国大学史料編纂所 編『読史備要』(新訂6版)内外書籍、1938年、1718頁。全国書誌番号: 73021599 。
- ^ 新人物往来社 1996, p. 63.
- ^ 黒田 2025, p. 261.
- ^ 新人物往来社 1996, pp. 62–63; 黒田 2025, p. 261.
参考文献
- 黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』KADOKAWA〈角川選書〉、2025年。 ISBN 978-4-04-703739-7。
- 柴裕之 著「総論 羽柴(豊臣)秀長の研究」、柴裕之 編『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第一四巻〉、2024年。 ISBN 978-4-86403-547-7。
- 新人物往来社 編『豊臣秀長のすべて』新人物往来社、1996年。 ISBN 4-404-02334-0。
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