岩崎城陥落と一揆の終結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 08:08 UTC 版)
慶長6年1月20日、南部軍は軍議を開いて陣立てを作成した後、3月17日、岩崎城周辺の七折館に陣を構えて攻撃を開始した。桜庭直綱ら主力が本丸突入を図るも、桝形土塁の防御や城兵の反撃に阻まれた。4月4日には白石宗直の家臣、鈴木将監義信(重信とも)率いる部隊の参戦もあり南部軍と戦闘となった。苦戦を強いられた南部軍だったが、4月26日、北信愛の献策で城に火をかけて焼き討ちにし、鉄砲隊による総攻撃で岩崎城を陥落させた。逃げ延びた和賀忠親であったが、その後近臣の蒲田治道、筒井喜助、齋藤十蔵とともに自害して陸奥国分尼寺に葬られたとも、伊達政宗に暗殺されたともいわれている。
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