木下友三郎
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木下 友三郎(きのした ともさぶろう、1864年9月8日(元治元年8月8日[1]) - 1944年(昭和19年)11月22日[2])は、日本の司法官、教育者。
- ^ 明治大学が保管する履歴書では8月4日生まれ(『明治大学小史―人物編』 38頁)。
- ^ a b 『朝日新聞』 1944年11月23日
- ^ a b c 『千駄ケ谷町誌』 314頁
- ^ 和歌山県日高郡 『和歌山県日高郡誌』 1923年、1256頁
- ^ 『大正人名辞典』 1554頁
- ^ 日本大学 大学史ニュース第15号 2018年9月30日発行
- ^ 1890年に配布された『日本法律学校設立主意及規則』(國學院大學梧陰文庫所蔵)に名前が見えるほか、少なくとも1892年度まで同校の教壇に立っていたことが確認できる(日本大学百年史編纂委員会 『日本大学百年史』 第一巻、1997年、340-341頁)。
- ^ 加藤七五郎 『特別認可専修学校同窓名簿』 専修学校、1892年、10頁
- ^ 1891年度から1903年度まで法律科と理財科で主に民法を講じた(慶應義塾150年史資料集編纂委員会編 『慶應義塾150年史資料集 第2巻』 慶應義塾、2016年、409頁)。
- ^ 法政大学 『私立法政大学一覧』 1907年、43頁
- ^ 1920年には、木下友三郎の学長解任を求める植原・笹川事件が起きている。
- ^ 『明治大学小史―人物編』 39頁
- ^ 『官報』第4157号「叙任及辞令」1940年11月13日。
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