日本の海上輸送の状況
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1944年(昭和19年)初頭まで、連合軍の潜水艦は多数の日本の艦船を沈めていた。連合軍潜水艦の作戦には、「ウルトラ情報」(en)と呼ばれる通信解析や暗号解読などのシギントの貢献が大きかった。日本海軍は護送船団の位置や航路情報を日常的に電波発信していたため、これを傍受した連合国側の海軍指揮官は、攻撃目標の存在を潜水艦に教えることができた。連合軍の潜水艦部隊は、有利な迎撃地点を自由に選ぶことができたのである。 日本海軍の対潜水艦戦術の遅れも、日本船の大きな損害の一因であった。戦前から太平洋戦争前半の日本海軍は、潜水艦からの通商保護を重視しておらず、1943年(昭和18年)に至るまでは護送船団の編成もあまり行っていなかった。船団が編成されなかったのは、編成待ちや航行速度調整による稼行率低下を嫌ったためでもあった。1943年(昭和18年)後半になって通商保護を担当する海上護衛総司令部が創設され、護送船団の編成と護衛戦術の研究が本格化した。 1944年(昭和19年)2月の激しい輸送船被害を見て、日本海軍は護送船団の運用方針を変更することにした。2月の潜水艦及び航空機による輸送船被害は、日本の保有商船の1割を超える甚大なものになっていた。その中にはマリアナ諸島やカロリン諸島行きの軍隊輸送船も相当数含まれていた。海上護衛総司令部の採用したのは「大船団方式」で、従来の輸送船5隻程度の護送船団を、10隻から20隻を集めた日本船団としては大規模な編制へと切り替えることになった。大船団方式の利点は、より多くの護衛艦を船団につけることができ、また船団数(航行頻度)を減らすことで被発見率を下げられることにあった。翌3月には日本船の被害は減少し、日本海軍では新方式の効果があったと判断していた。しかし、戦後のアメリカ海軍関係者の説明によると、潜水艦の一部が通商破壊任務から外され、空母機動部隊の支援に回されていたためであった。なお、日本側の海上護衛総司令部でも、通信解析の結果から、作戦中のアメリカ軍潜水艦の配置換えが生じたことも一因であろうとは推定していた。 1944年(昭和19年)4月には、主に松輸送用として特設護衛船団司令部(臨時護衛船団司令部とも)の編成も行われた。この特設護衛船団司令部は、船団指揮官を務める高級海軍士官を用意しておくための制度で、司令官だけの司令部を常設にしておき、船団編成時に適当な参謀と護衛艦艇を他部隊から集めて組み合わせようと言う構想であった。しかし、実際には船団運用や対潜戦術に精通した人材はまったくいなかった。また、建制の実戦兵力や参謀を持たないために、普段から協同作戦に慣れておくことはできず、有機的な戦力発揮が難しい弱点も抱えていた。 竹一船団では、2個の重要師団を運ぶために大型の輸送船9隻が集められ、特に強力な護衛部隊も付けられた。船団指揮官に選ばれた梶岡定道少将は、ウェーク島の戦いなどに参加した経験豊かな提督であった。大海指第363号に基づいて用意された護衛部隊は、特設護衛船団司令部のひとつとして新編成の第6護衛船団司令部と、旗艦となる石炭燃料の旧式急設網艦「白鷹」のほか、駆逐艦3隻程度、海防艦や駆潜艇などの各種小艦艇で構成された。支那方面艦隊も小艦艇(宇治、安宅、栗、第101掃海艇)を派遣した。護衛艦艇は経由地マニラの前後で大幅に入れ替えられることになっており、これは大海指第363号ではマニラ以北が海上護衛総司令部の担当区域、以南は連合艦隊の担当区域と分担されたためであった。
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