日本の海堡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 13:27 UTC 版)
全ての座標を示した地図 - OSM全座標を出力 - KML 表示 日本は明治から大正にかけて、大日本帝国陸軍大将の山縣有朋が、大日本帝国の要塞化を主張。東京湾には千葉県の富津岬沖から、神奈川県の観音崎沖側にかけて首都防衛のために3か所の人工島が造成された。 海保の完成後は、陸軍兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて、東京湾口に円弧状に存在する首都防衛ラインの一環として運用された。しかし第二海堡と第三海堡は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により被災し、その年のうちに廃止・除籍された。第一海堡はその後も使用され、東京湾要塞の一部として第二次世界大戦の終了時まで運用された。 なおこれらの東京湾に作られた海堡は、現在は洋上要塞として機能していない上に、東京湾周辺の海上交通の混雑から、海難事故の原因と指摘されていることから、ヨット愛好家でもある石原慎太郎をはじめ、船舶運航関係者が第二海堡の撤去を強く主張している。一方で、建設当初に堅牢に設計されたために、撤去が困難である部位を残している。
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