ナポレオン・ボナパルト 死因をめぐる論議

ナポレオン・ボナパルト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/29 21:54 UTC 版)

死因をめぐる論議

オテル・デ・ザンヴァリッド地下にあるナポレオンの墓

ヒ素(砒素)中毒による暗殺説が語られるのは、本人が臨終の際に「私はイギリスに暗殺されたのだ」と述べたこともさることながら、彼の遺体をフランス本国に返還するために掘り返したとき、遺体の状態が死亡直後とほぼ変わりなかったこと(ヒ素は剥製にも使われるように保存作用がある)、さらには、スウェーデンの歯科医ステン・フォーシュフットがナポレオンの従僕マルシャンの日記を精読して、その異常な病状の変化から毒殺を確信し、英国グラスゴー大学の法医学研究室ハミルトン・スミス博士の協力のもと、ナポレオンのものとされる頭髪からヒ素を検出して、砒素毒殺説をセンセーショナルに発表したことによる。ヒ素はナポレオンとともにセントヘレナに同行した何者かがワインに混入させた毒殺説以外にも、その当時の壁紙にはヒ素が使われており、ナポレオンの部屋にあった壁紙のヒ素がカビとともに空気中に舞い、それを吸ったためだという中毒説がある。フォーシュフットの検査に使った頭髪が実際にナポレオンのものか確証がないという反論があったため、2002年に改めてパリ警視庁ストラスブール法医学研究所が様々なナポレオンの遺髪を再調査した。すると、皇帝時代に採取された彼の髪に放射光をあてて調査した結果、やはりかなりの量のヒ素が検出され、セントヘレナに行く前からヒ素中毒であった可能性があると発表された。しかし当時は髪の毛の保存料としてヒ素が広く使われており、ナポレオン以外の頭髪でもヒ素が検出されることがその後の調査で判明した。生前にヒ素を摂取した場合も頭髪に残るが、切り取られた髪の毛の保存料としてヒ素が使われた場合にも、同様にヒ素が髪の内部まで浸透し、科学的には両方の可能性を否定できないため、この場合はヒ素は死因を特定する材料にはならないことがわかった[注釈 21]。よってヒ素による慢性あるいは急性の中毒説は(消極的に)否定された[7]

ナポレオンの死を描いた1826年の絵画

死の直後に発表された胃癌説(病死説)公式には今まで一度も覆されたことはなく[要出典]、最近の研究でも胃癌を支持するものがある[8]。また同様に胃潰瘍説も取り沙汰されている。実際ナポレオンの家族にも胃癌で亡くなった者(家族性胃癌症候群)がおり[9]ナポレオン自身もまた胃潰瘍であった。特に1817年以降、体調は急激に悪化している[要出典]ただ、解剖所見では、胃潰瘍により胃に穿孔していたことが確認され、また初期の癌も見つかった[要出典]

そのほか、20年以上にわたり戦場を駆けた重圧と緊張が、もともと頑丈ではなかった心身に変調を来させたという説もある。若いころは精神力でカバーできていたが、40歳を迎えるころにはナポレオンの体を蝕んでいたという主張で、その死は激動の生活から無為の生活を強いられた孤島の幽囚生活が心理的ストレスとなり、生活の変調がもたらした致死性胃潰瘍であるという。胃潰瘍とともに悪化した心身の変調を内分泌や脳下垂体の異常を原因と主張する医学者もいたヒルマン博士の「ナポレオン1世の神経性内分泌異常症候群」およびフリュジェ博士の「脳下垂体異常」[要出典][10]

このように様々な説があるが、公式見解の胃癌説以外で考慮に値するのは、医療ミス説である。カリフォルニア大学バークレー校の心臓病理学者スティーブン・カーチは、ナポレオンを看取った主治医アントマルキのカルテを見て、医師が下剤として酒石酸アンチモニルカリウムを、さらに死の前日には嘔吐剤として甘汞かんこうを大量に処方していたことに気づいた。これらは単独でも毒物であるが、飲みやすくするために使われた甘味料オルジエと合わせると体内でシアン化水銀という猛毒にかわった可能性があり、薬の量からして、体内の電解質のバランスを崩して心拍の乱れを起こして心停止に至ったと判断できるとした。カーチは「ヒ素の長期的影響に加えて医療過誤により悪化した不整脈が直接の死因」と主張する[11][12]

総合的にはナポレオンの死の原因は現在に至っても決着していない。ヒ素毒殺説は有名であるため誤解されやすいが、フランスでの公式見解は一貫して胃癌説である[要出典]


注釈

  1. ^ フランス名ではシャルル・マリ・ボナパルト。しばしば貴族名の定冠詞をつけたディ・ブオナパルテまたはド・ボナパルトとも名乗ったり、署名したりしている。
  2. ^ コルシカ語: 「Nabulione Buonaparte」。コルシカ語はイタリア語系の方言のなかでもかなり特殊で、「p」表記がbの発音に、「o」表記がuの発音に、なるなど独特の発音になるために表音表記ではこうなる。当時、コルシカ島では文語ラテン語がまだ使われており、実際の表記は表音とさらに異なって書くときは「Nabulion」とラテン語風となり、家族の一般的呼び名は「ナブリオ」になる。幼くしてフランス本土に渡ってフランス語を勉強するようになってからフランス語で書くイタリア語人名表記を使うように指導された。
  3. ^ 「ナポレオン(ナブリオーネ)」との名が付けられた3番目の子供で、同名の夭折した長兄が一人いる。一つ上の次兄もジョゼフ・ナポレオン(ジュゼッペ・ナブリオーネ)。またこのナポレオンという名前は伯父からとったもの。
  4. ^ 騎兵科は主に裕福な名門貴族の登竜門であり、彼らと同じ土俵に立てば出世の見込みがなかったため。他にも後に友人となるマルモンなども中産階級出身であり、身分や財産よりも学業や実務能力が重んじられる道を選んでいる。他の選択肢としては、数学が得意だったことから、天文学や測量などの専門知識が求められる海軍も考えていた。
  5. ^ これはルソーが『社会契約論』の中で、コルシカ島を革命が起こり憲法が成立する余地があるとした。若い頃のナポレオンはコルシカ民族主義者であった。
  6. ^ ナポレオンのフランス語は青年期まで、イタリア語の一方言であるコルシカ訛りがかなりはっきりとあった。前述のようにコルシカ語ではいくつかのアルファベットの表記が音と異なるため、特に固有名詞で言い間違いが多かったが、皇帝になってからは特にそれを誰も注意しなかった。
  7. ^ この頃はまだ少将の扱いだった。(「ルイ=ニコラ・ダヴー」参照。
  8. ^ フランス革命軍では将軍のランクを廃止したため、少将、中将、大将といった階級は存在しない。
  9. ^ 国内軍は治安維持を任務とする方面軍と同格の軍組織であり、国軍の総司令官という意味ではないので注意されたい。
  10. ^ 当時の北イタリアはオーストリアの支配を受けており、市民革命を成し遂げた新しい秩序の国から来たナポレオンの軍隊は、市民から解放軍として大きな歓迎を受けたといわれる。
  11. ^ この遠征に関しては、イギリスの海軍の力をそぐための有効策であったかどうか疑問視する見方もある。対イギリス作戦のためというのは口実でこれまでの戦勝に自信を深めていたナポレオンが自らを古代ギリシアの英雄アレクサンドロス大王古代ローマの英雄ユリウス・カエサルになぞらえたかったために言い出したものであり、イタリア戦線で独断でオーストリアとの講和交渉を始めるなどしたナポレオンを総裁政府も疎んじるようになっていたため厄介払いとしてそうした荒唐無稽な遠征を政府も容認したのだとみる見方もある。ナポレオンは、アレクサンドロス大王がしたのと同じように、考古学者を165人も同行させていた。このときにロゼッタ・ストーンが発見されたことはよく知られている。
  12. ^ 補給路も断たれペストなどの伝染病の中に残されたナポレオン軍の兵はこのあと2年近く抗戦した後、オスマン帝国軍とイギリス軍に降伏することとなる。
  13. ^ 1803年には、1フラン=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純で約4.5グラムであった。この、いわゆるジェルミナール・フランは以後第一次世界大戦後まで採用されていた。
  14. ^ 1808年には刑事訴訟法、1810年には刑法を定めるなど法制を逐次整備し、1810年頃までには法体系を確立した。
  15. ^ 全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校を置き、さらに小学校を多数設置した。そして教員不足を補うために、政治的妥協を図って聖職者による教育活動を許した。
  16. ^ 道路網、運河、港湾などの改修は、商工業の発展だけでなく軍事活動にも関わるものであり、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。知事たちの重要な業務には警察業務もあり、迅速な情報伝達のために「テレグラフ」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木を動かして信号を送るシグナルが数キロメートルおきに立てられ、暗号文が伝達された。
  17. ^ 1808年にはナポレオン軍は再び教皇領に侵入し、この時には教皇領をフランス領に接収し、ティブル県およびトラジメーヌ県を置いた。ここに至ってピウス7世はナポレオンをローマ教会から破門とする。ナポレオンはこれに対してピウス7世を北イタリアのサヴォナに監禁した。教皇がローマへ戻れるのはナポレオン退位後、1814年になってからである。
  18. ^ かつて広大な領土を有していたスウェーデン王国は、カール12世の時代にロシアと戦ったものの、やはり焦土作戦と冬将軍に苦しめられた。そして、カール12世自身はポルタヴァの戦いに敗れて黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命した。1718年にカール12世が死ぬと、スウェーデンは一気に弱体化した。
  19. ^ 『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物事典』第24回ナポレオンと2人の妻 テレビ東京
  20. ^ ラス・カーズの『セント=ヘレナ覚書』は日本語訳が刊行されている(小宮正弘編訳、潮出版社、2006年3月、ISBN 978-4-267-01710-0)。ほか、ナポレオンの従僕のルイ・ジョゼフ・ナルシス・マルシャン(1791年-1876年)の回想も抄訳されている(『ナポレオン最期の日 皇帝従僕マルシャンの回想』(藪崎利美訳、MK出版社、2007年、ISBN 9784990208219)。
  21. ^ 「ナポレオン謀殺ミステリー」ディスカバリーチャンネルで放送。[要検証]
  22. ^ 戦略モードと会戦モードの二つがある
  23. ^ a b ナポレオンは登場するが、ナポレオニックゲームではない、またはその要素が極めて少ない
  24. ^ Talon soft社のBattlegroundシリーズの復刻・移植版

出典

  1. ^ “ナポレオンの冠から除かれた金細工の葉、8000万円超で落札 仏”. AFPBB News. (2017年11月20日). https://www.afpbb.com/articles/-/3151689 2020年12月2日閲覧。 
  2. ^ 那波列翁勃納把爾的伝(拡大画像 065-009) | 江戸時代の日蘭交流” (日本語). 国立国会図書館. 2022年9月28日閲覧。
  3. ^ 例えば『那勃列翁一代記(倭國字西洋文庫)』
  4. ^ 少年伝記叢書. 號外 ウエリントン - 十六 奈破崙の逃還” (日本語). 国立国会図書館. 2022年9月30日閲覧。
  5. ^ 奈翁・那翁”. 精選版 日本国語大辞典. 2022年9月28日閲覧。
  6. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508/ 2020年12月2日閲覧。 
  7. ^ 両角 1994, pp. 282-284.
  8. ^ The Biology of Gastric Cancers. Timothy C. Wang, James G. Fox, and Andrew S. Giraud. 2009, 251-252.
  9. ^ 坪井芳五郎 著『癌療法』p.12「遺伝の関係」(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 両角 1998, pp. 298 ff.
  11. ^ ナショナルジオグラフィック日本版』2005年5月号[要ページ番号]
  12. ^ “Napoleon 'killed by his doctors'” (English). BBC News. (2004年7月22日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/health/3913213.stm 2014年4月12日閲覧。 
  13. ^ 「没後200年 ナポレオン 揺れる評価」『読売新聞』朝刊2021年8月31日(文化面)
  14. ^ “犬の名前「イトラー」に町長が拒絶反応、その理由は フランス”. AFPBB News. (2014年9月6日). http://www.afpbb.com/articles/-/3025128 2014年9月6日閲覧。 
  15. ^ MUFFAT, Sophie (2018年10月). “LA VIE EXTRAORDINAIRE DU COCHON NAPOLÉON” (フランス語). Fondation Napoléon. 2021年5月30日閲覧。
  16. ^ 『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.422
  17. ^ 『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.424
  18. ^ 『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.433
  19. ^ 『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.435
  20. ^ a b 『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』(千趣会 1978年6月1日)p.190
  21. ^ 『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』(千趣会 1978年6月1日)p.191
  22. ^ 『ナポレオン言行録』(オクターヴ・オブリ英語版編、岩波文庫)p.252。
  23. ^ 『ナポレオン言行録』(オクターヴ・オブリ英語版編、岩波文庫)p.258
  24. ^ ヘーゲル 1975[要ページ番号]






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