ナポレオン・ボナパルト
(ナポレオン1世 から転送)
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ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、別名(1794年以前): ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語: Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)となった。1世から3世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。
注釈
- ^ フランス名ではシャルル・マリ・ボナパルト。しばしば貴族名の定冠詞をつけたディ・ブオナパルテまたはド・ボナパルトとも名乗ったり、署名したりしている。
- ^ コルシカ語: 「Nabulione Buonaparte」。コルシカ語はイタリア語系の方言のなかでもかなり特殊で、「p」表記がbの発音に、「o」表記がuの発音に、なるなど独特の発音になるために表音表記ではこうなる。当時、コルシカ島では文語はラテン語がまだ使われており、実際の表記は表音とさらに異なって書くときは「Nabulion」とラテン語風となり、家族の一般的呼び名は「ナブリオ」になる。幼くしてフランス本土に渡ってフランス語を勉強するようになってからフランス語で書くイタリア語人名表記を使うように指導された。
- ^ 「ナポレオン(ナブリオーネ)」との名が付けられた3番目の子供で、同名の夭折した長兄が一人いる。一つ上の次兄もジョゼフ・ナポレオン(ジュゼッペ・ナブリオーネ)。またこのナポレオンという名前は伯父からとったもの。
- ^ 騎兵科は主に裕福な名門貴族の登竜門であり、彼らと同じ土俵に立てば出世の見込みがなかったため。他にも後に友人となるマルモンなども中産階級出身であり、身分や財産よりも学業や実務能力が重んじられる道を選んでいる。他の選択肢としては、数学が得意だったことから、天文学や測量などの専門知識が求められる海軍も考えていた。
- ^ これはルソーが『社会契約論』の中で、コルシカ島を革命が起こり憲法が成立する余地があるとした。若い頃のナポレオンはコルシカ民族主義者であった。
- ^ ナポレオンのフランス語は青年期まで、イタリア語の一方言であるコルシカ訛りがかなりはっきりとあった。前述のようにコルシカ語ではいくつかのアルファベットの表記が音と異なるため、特に固有名詞で言い間違いが多かったが、皇帝になってからは特にそれを誰も注意しなかった。
- ^ この頃はまだ少将の扱いだった。(「ルイ=ニコラ・ダヴー」参照。
- ^ フランス革命軍では将軍のランクを廃止したため、少将、中将、大将といった階級は存在しない。
- ^ 国内軍は治安維持を任務とする方面軍と同格の軍組織であり、国軍の総司令官という意味ではないので注意されたい。
- ^ 当時の北イタリアはオーストリアの支配を受けており、市民革命を成し遂げた新しい秩序の国から来たナポレオンの軍隊は、市民から解放軍として大きな歓迎を受けたといわれる。
- ^ この遠征に関しては、イギリスの海軍の力をそぐための有効策であったかどうか疑問視する見方もある。対イギリス作戦のためというのは口実でこれまでの戦勝に自信を深めていたナポレオンが自らを古代ギリシアの英雄アレクサンドロス大王、古代ローマの英雄ユリウス・カエサルになぞらえたかったために言い出したものであり、イタリア戦線で独断でオーストリアとの講和交渉を始めるなどしたナポレオンを総裁政府も疎んじるようになっていたため厄介払いとしてそうした荒唐無稽な遠征を政府も容認したのだとみる見方もある。ナポレオンは、アレクサンドロス大王がしたのと同じように、考古学者を165人も同行させていた。このときにロゼッタ・ストーンが発見されたことはよく知られている。
- ^ 補給路も断たれペストなどの伝染病の中に残されたナポレオン軍の兵はこのあと2年近く抗戦した後、オスマン帝国軍とイギリス軍に降伏することとなる。
- ^ 1803年には、1フラン=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純銀で約4.5グラムであった。この、いわゆるジェルミナール・フランは以後第一次世界大戦後まで採用されていた。
- ^ 1808年には刑事訴訟法、1810年には刑法を定めるなど法制を逐次整備し、1810年頃までには法体系を確立した。
- ^ 全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校を置き、さらに小学校を多数設置した。そして教員不足を補うために、政治的妥協を図って聖職者による教育活動を許した。
- ^ 道路網、運河、港湾などの改修は、商工業の発展だけでなく軍事活動にも関わるものであり、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。知事たちの重要な業務には警察業務もあり、迅速な情報伝達のために「テレグラフ」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木を動かして信号を送るシグナルが数キロメートルおきに立てられ、暗号文が伝達された。
- ^ 1808年にはナポレオン軍は再び教皇領に侵入し、この時には教皇領をフランス領に接収し、ティブル県およびトラジメーヌ県を置いた。ここに至ってピウス7世はナポレオンをローマ教会から破門とする。ナポレオンはこれに対してピウス7世を北イタリアのサヴォナに監禁した。教皇がローマへ戻れるのはナポレオン退位後、1814年になってからである。
- ^ かつて広大な領土を有していたスウェーデン王国は、カール12世の時代にロシアと戦ったものの、やはり焦土作戦と冬将軍に苦しめられた。そして、カール12世自身はポルタヴァの戦いに敗れて黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命した。1718年にカール12世が死ぬと、スウェーデンは一気に弱体化した。
- ^ 『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物事典』第24回ナポレオンと2人の妻 テレビ東京
- ^ ラス・カーズの『セント=ヘレナ覚書』は日本語訳が刊行されている(小宮正弘編訳、潮出版社、2006年3月、ISBN 978-4-267-01710-0)。ほか、ナポレオンの従僕のルイ・ジョゼフ・ナルシス・マルシャン(1791年-1876年)の回想も抄訳されている(『ナポレオン最期の日 皇帝従僕マルシャンの回想』(藪崎利美訳、MK出版社、2007年、ISBN 9784990208219)。
- ^ 「ナポレオン謀殺ミステリー」ディスカバリーチャンネルで放送。[要検証 ]
- ^ 戦略モードと会戦モードの二つがある
- ^ a b ナポレオンは登場するが、ナポレオニックゲームではない、またはその要素が極めて少ない
- ^ Talon soft社のBattlegroundシリーズの復刻・移植版
出典
- ^ “ナポレオンの冠から除かれた金細工の葉、8000万円超で落札 仏”. AFPBB News. (2017年11月20日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
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- ^ キャシー・ニューマン 著、長坂邦宏 編「毒をめぐる10の物語」『ナショナルジオグラフィック日本版』第11巻、第5号、日経BP、46-47頁、2005年5月。『2005年5月号』
- ^ “Napoleon 'killed by his doctors'” (English). BBC News. (2004年7月22日) 2014年4月12日閲覧。
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- ^ 『ナポレオン言行録』(オクターヴ・オブリ編、岩波文庫)p.252。
- ^ 『ナポレオン言行録』(オクターヴ・オブリ編、岩波文庫)p.258
- ^ ヘーゲル 1975[要ページ番号]
ナポレオン1世
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ナポレオン1世皇帝にして陛下、神の恩寵および共和国の憲法下でのフランス人の皇帝、イタリアの王、ライン同盟およびフランクフルト大公国の保護者、ヘルヴェティア連邦の調停者。
※この「ナポレオン1世」の解説は、「フランス皇帝」の解説の一部です。
「ナポレオン1世」を含む「フランス皇帝」の記事については、「フランス皇帝」の概要を参照ください。
ナポレオン1世(1804年 - 1815年)
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「フランス元帥」の記事における「ナポレオン1世(1804年 - 1815年)」の解説
これらの元帥のうち19名の名前が、パリを取り巻く道路ブルヴァール・デ・マレショーにつけられている。また、26人の元帥のうち7名が非業の死を遂げた(ベシェールは砲弾により戦死、ランヌは戦場で致命傷を受け戦死、ポニャトフスキは退却中に溺死、ベルティエは自殺、ブリューヌは暗殺、ミュラとネイは復古王政期に刑死)。 ルイ=アレクサンドル・ベルティエ(1753年 - 1815年) ヌーシャテル大公、ヴァグラム大公、ヴァランジャン公爵。ナポレオンの参謀長を長く務め、「唯一無二の名参謀」と称された。授与年:1804年 ジョアシャン・ミュラ(1767年 - 1815年) 皇族、ベルク大公、クレーフェ公。1808年よりナポリ国王ジョアッキーノ1世。ナポレオンの義弟で、「世界最高の騎兵」と称された。授与年:1804年 ボン・アドリアン・ジャノー・ド・モンセー(1754年 - 1842年)コネリアーノ公爵。清廉高潔な司令官として名高い元帥。授与年:1804年 ジャン=バティスト・ジュールダン(1762年 - 1833年)帝国伯爵。世渡り上手な元帥。指揮能力は二流と評されるが、政治面で有能ぶりを発揮した。授与年:1804年 アンドレ・マッセナ(1758年 - 1817年) エスリンク大侯爵、リヴォリ公爵。第一統領期から帝政前期に特に活躍した優秀な戦術家で「勝利の愛し子」と称された。授与年:1804年 ピエール・オージュロー(1757年 - 1816年)カスティリオーネ公爵。イタリア遠征時に多くの武功を立てたが、貪欲な野心家でもあった。授与年:1804年 ギヨーム=マリ=アンヌ・ブリューヌ(1763年 - 1815年)帝国伯爵。イタリア遠征時に身を立てたが、度重なる汚職の為、ナポレオンから疎まれた。授与年:1804年 ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト(1769年 - 1851年)ダルマティア公爵。優れた用兵家でナポレオンをして「ヨーロッパで最も優れた戦術家」と言わしめ、練兵の達人としても知られた。王政復古後にフランス大元帥や首相となる。授与年:1804年。フランス大元帥授与年:1847年。 ジャン=バティスト・ジュール・ベルナドット(1763年 - 1844年)ポンテコルヴォ公爵、1818年よりスウェーデン王カール14世ヨハン。ナポレオンのライバルと目された時期もあり、軍事的評価は毀誉半ばする。後に離反、対仏大同盟の先鋒として活躍した。授与年:1804年 ジャン・ランヌ(1769年 - 1809年)モンテベッロ公爵、シェヴィエシュ公爵。勇猛果敢な戦いぶりで数々の軍功を打ち立て、「大陸軍のロラン」「フランスのアイアス」と称賛された。ナポレオンからは親友として遇された。授与年:1804年 エドゥアール・モルティエ(1768年 - 1835年)トレヴィーゾ公爵。知勇兼備の元帥。政戦問わず活躍し、後に首相となる。授与年:1804年 ミシェル・ネイ(1769年 - 1815年)エルヒンゲン公爵、モスクワ川大公。逆境での粘り強い戦いぶりでナポレオンから「勇者の中の勇者」と絶賛された元帥。人好きな性格で、元帥中最も中心的な役割を果たした。授与年:1804年 ルイ=ニコラ・ダヴー(1770年 - 1823年)アウエルシュタット公爵、エックミュール大公。生涯不敗を誇り、「不敗のダヴー」と称された元帥。数々の伝説を打ち立て、軍事面で最優秀の元帥と目される。授与年:1804年 ジャン=バティスト・ベシェール(1768年 - 1813年)イストリア公爵。主に近衛騎兵を指揮した優秀な騎兵指揮官。授与年:1804年 フランソワ・クリストフ・ケレルマン(1735年 - 1820年)ヴァルミー公爵。名誉元帥。ヴァルミーの戦いでフランスを救った英雄。老齢だったこともあり帝政期には目立つ任務にはついていないが、国民や兵士からの信頼は絶大だった。授与年:1804年 フランソワ・ジョゼフ・ルフェーヴル(1755年 - 1820年)ダンツィヒ公爵。名誉元帥。長い軍歴を持ち、帝政後半では近衛部隊を指揮した。夫婦ともども実直且つ人情味溢れる性格で知られる。授与年:1804年 カトリーヌ=ドミニク・ド・ペリニョン(1754年 - 1818年)ペリニョン侯爵。名誉元帥。行政重要職に就いていたが、軍人としての活動はほぼ無かった。授与年:1804年 ジャン=マチュー・フィリベール・セリュリエ(1742年 - 1819年) 帝国伯爵。名誉元帥。極めて長い軍歴を誇り、イタリア遠征ではナポレオンの副将格として活躍。その後は老齢もあって主に二線級の職務をこなした。授与年:1804年 クロード・ヴィクトル=ペラン(1764年 - 1841年)ベルノ公爵。ナポレオンに古くから付き従い、勇猛な戦いぶりで度々戦功を立てた。後に離反する。授与年:1807年 ジャック・マクドナル(1765年 - 1840年)ターラント公爵。スコットランド系の血筋を引く。誠実且つ忠実な性格で知られ、他国からも定評があった。授与年:1809年 ニコラ・ウディノ(1767年 - 1847年)ルジオ公爵。勇猛果敢で知られたが、その分敗北・負傷も多かった。授与年:1809年 オーギュスト・マルモン(1774年 - 1852年)ラグーザ公爵。ナポレオンの士官学校時代の友人。優れた砲兵将校で、フランス軍の砲兵近代化に尽力した。ナポレオンからは側近として厚遇されていたが、第一帝政末期に無許可で降伏し汚名を被った。授与年:1809年 ルイ=ガブリエル・スーシェ(1770年 - 1826年)アルブフェーラ公爵。頭角を現すのは遅かったが特にスペイン戦役で活躍し、ナポレオンに「元帥中最優秀である」と評価されたこともある。授与年:1811年 ローラン・グーヴィオン=サン=シール(1764年 - 1830年)帝国伯爵。1817年より王国侯爵。ナポレオンから「防御戦の第一人者」と見なされていた。熱烈な共和主義者だった為、ナポレオンとはやや距離を置いていた。授与年:1812年 ジョゼフ・アントワーヌ・ポニャトウスキ(1763年 - 1813年)ポニャトフスキ大公。元々ポーランドの王族で、元帥中唯一の外国人。祖国復興の為、ポーランド騎兵を率いて各地で奮闘したが、元帥位授与後3日目にして非業の死を遂げた。授与年:1813年 エマニュエル・ド・グルーシー(1766年 - 1847年) グルーシー侯爵。優秀な重騎兵指揮官として名を馳せたが、ワーテルローの戦いで失態を犯した。百日天下期に元帥位を授与されたことでも知られる。授与年:1815年
※この「ナポレオン1世(1804年 - 1815年)」の解説は、「フランス元帥」の解説の一部です。
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