クロード・ベルナールとは? わかりやすく解説

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ベルナール【Claude Bernard】

読み方:べるなーる

1813〜1878]フランス生理学者膵液(すいえき)の消化作用肝臓のグリコーゲン生成作用発見神経による血管運動解明など、多く業績がある。著「実験医学序説」など。


クロード・ベルナール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 15:20 UTC 版)

クロード・ベルナールClaude Bernard, 1813年7月12日 - 1878年2月10日)は、フランス医師生理学者

クロード・ベルナール

「内部環境の固定性」と言う考え方を提唱。この考え方は後に米国生理学者ウォルター・B・キャノンによって「ホメオスタシス」という概念に発展させられた。また、1862年ルイ・パスツールと共に低温殺菌法の実験を行った。

生涯

ベルナールはフランス東部のローヌ地方の村サン・ジュリアンで、ワイン商を営む父と、農民の母との間に生まれた[1]。彼は村のイエズス会の学校で初等教育を受け、リヨン大学に入学したが、薬剤師の助手になるため大学を離れた。彼は余暇の間にヴォードヴィル・コメディの台本書きに専念し、21歳で劇作家を志しパリへ向かった。しかしながらパリで彼の台本を読んだ評論家は作家をあきらめ、医学の道を志すよう彼に諭した。ベルナールはこの助言に従い、病院でインターンとなった。

ベルナールは、1834年にパリに移り、パリ大学の医学部に入学した。1836年実習医試験、1839年インターン試験にそれぞれ合格している。1841年、フランソワ・マジャンディー教授の助手になり、生理学的実験の専門家となった。[1]

1843年に医学の学位を取得して、1845年マリー・フランソワーズ・マルタンと見合い結婚した。1854年からソルボンヌ大学で生理学の教授を務めた。さらに、1855年にはコレージュ・ド・フランスで医学の教授に就任した。1868年にはアカデミー・フランセーズ会員に選出された。1869年に妻と離婚している。その後は、医学的哲学的研究に打ち込んだ。[1]

脚注

  1. ^ a b c フランソワ・トリモリエール、カトリーヌ・リシ編、樺山紘一日本語版監修『ラルース 図説 世界史人物百科 Ⅲ フランス革命 - 世界大戦前夜』原書房(2005年4月10日、p.274)

参考文献

関連項目


前任
マリー=ジャン=ピエール・フルーレンス
アカデミー・フランセーズ
席次29

第12代:1868年 - 1878年
後任
エルネスト・ルナン



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