まみや‐りんぞう〔‐リンザウ〕【間宮林蔵】
間宮 林蔵 (まみや りんぞう)
1775〜1844 (安永4年〜弘化元年) |
【探検家】 樺太を探検、「間宮海峡」を発見した。 |
常陸国出身。1790年江戸に出て地理学を学ぶ。99年に蝦夷地に初めて渡り、翌年箱館で伊能忠敬から測量術を学んだ。1808年に樺太に渡り、ロシアの半島と思われていた樺太が島であることを確認した。シーボルト事件の密告者と言われ人望を失ったのちは、幕府隠密として長崎に下った。そのシーボルトは、樺太島と中国大陸間の海峡を「間宮海峡」と名づけ、世界に紹介した。日本人の名がついた唯一の地名である。 |
年(和暦) | ||
●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 | 8才 |
●1789年 (寛政元年) | ■棄捐令 | 14才 |
●1790年 (寛政2年) | ■石川島に人足寄場を設置 | 15才 |
●1791年 (寛政3年) | ■江戸市中銭湯の男女混浴を禁止 | 16才 |
●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 22才 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 28才 |
●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 | 31才 |
●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 | 33才 |
●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 | 50才 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 53才 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 54才 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 | 55才 |
●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 | 62才 |
●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 | 64才 |
・佐藤 信淵 | 1769年〜1850年 (明和6年〜嘉永3年) | +6 |
・近藤 重蔵 | 1771年〜1829年 (明和8年〜文政12年) | +4 |
・徳川 家斉 | 1773年〜1841年 (安永2年〜天保12年) | +2 |
・式亭 三馬 | 1776年〜1822年 (安永5年〜文政5年) | -1 |
間宮林蔵
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間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。名は倫宗(ともむね)。元武家の帰農した農民出身であり、幕府で御庭番を務めた役人であった。生年は安永4年(1775年)とも[1]。
注釈
出典
- ^ ブリタニカ国際大百科事典. “間宮林蔵” (日本語). コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年3月21日閲覧。
- ^ 髙橋大輔『間宮林蔵・探検家一代』(中公新書ラクレ)
- ^ A.R.アルテーミエフ著・垣内あと訳『ヌルガン永寧寺遺跡と碑文:15世紀の北東アジアとアイヌ民族』北海道大学出版会,2008年
- ^ Russia express社旅行記:ティル村の重建永寧寺跡を訪ねる旅
- ^ 杉浦守邦 『江戸期文化人の死因』 思文閣出版 2008年
- ^ カネコ (2017年7月19日). “間宮林蔵の養子鉄次郎孝順の実家について”. 探墓巡礼顕彰会. 2022年4月19日閲覧。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.21
- ^ “間宮林蔵の子孫が一堂に 茨城県・伊奈町”. 共同通信. (2003年10月25日)、週刊朝日2014年9月5日号189ページ
間宮林蔵(まみや りんぞう)
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「新・子連れ狼」の記事における「間宮林蔵(まみや りんぞう)」の解説
江戸幕府の若年寄・大久保加賀守配下の牛久呑起に属する隠密。実は老中・松平伊豆守の隠し子。子に竹姫闇蔵がいる。当初は、牛久呑起の一員として蝦夷地(北海道)やその周辺の地域の調査を行い、この間におろしや(ロシア)語を習得したようである。
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間宮林蔵
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「義経=ジンギスカン説」の記事における「間宮林蔵」の解説
『窮髪記譚』を間宮林蔵が記しているが、義経北行説を載せている。 「満州人に源義経蝦夷より満州へ入りし事を度々尋ねしに、聢(しか)といたせし証拠はなく候えども当時の漢土の天子は日本人の末なりという事承り伝え候思うに蝦夷へ行きし我が国の言葉を聞き伝えたるにてあらん歟(か)」 と書かれている。更に、 「唐太(=樺太)を離れてマンコの川(=黒竜江)を五十里ばかり上ったところのアヲレヒと云う処で、青石に日本画風で描かれ錐の様なもので彫った二疋の馬の絵を発見し、異国の筆法ではないと確信した。間宮も描いてみたいと所望したが拙くて辞めた。右の馬の絵はもしや義経公かもしくはその従者か。蝦夷地に弁慶崎というところがあるが、正しくは世人の誤りで蝦夷言葉(=アイヌ語)にヘンケルという言葉があり、これはヘンケルサキであって弁慶崎ではない」 と書いている。林蔵が推測しているように和人やアイヌ民族と満州の地の人々との間に密接な交流があったと言う史実を単に物語るに過ぎない。 幕府は間宮林蔵に北方探検を命じ蝦夷近辺の物産調査、北方の領土調査、ロシアの動向、貿易の可能性調査が主な内容だったが、義経の子孫が蝦夷を経由し、大陸に渡ったのではないかという調査も探検の目的に含まれていた。
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