とくがわ‐いえなり〔トクがはいへなり〕【徳川家斉】
徳川家斉
徳川 家斉 (とくがわ いえなり)
1773〜1841 (安永2年〜天保12年) |
【十一代将軍】 十一代将軍。自身が実権を握った大御所時代には最も華麗な化政文化を生んだ。 |
十一代将軍(在職1787〜1837)。寛政改革を断行した老中松平定信の退陣後、ゆるやかな文治政策のもとで、役人の賄賂の横行、治安の悪化など、社会問題が続出した。将軍引退後も、家斉は大御所として権勢をふるったが、彼自身、側室40人に子供を55人生ませるなど、政治の弛みは続いた。しかし、寛政以後停滞していた江戸文化は一気に爛熟化し、享楽的で退廃的な化政文化を生んだ。 |
年(和暦) | ||
●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 | 10才 |
●1789年 (寛政元年) | ■棄捐令 | 16才 |
●1790年 (寛政2年) | ■石川島に人足寄場を設置 | 17才 |
●1791年 (寛政3年) | ■江戸市中銭湯の男女混浴を禁止 | 18才 |
●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 24才 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 30才 |
●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 | 33才 |
●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 | 35才 |
●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 | 52才 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 55才 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 56才 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 | 57才 |
●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 | 64才 |
●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 | 66才 |
・滝沢 馬琴 | 1767年〜1848年 (明和4年〜嘉永元年) | +6 |
・雷電 為衛門 | 1767年〜1825年 (明和4年〜文政8年) | +6 |
・佐藤 信淵 | 1769年〜1850年 (明和6年〜嘉永3年) | +4 |
・近藤 重蔵 | 1771年〜1829年 (明和8年〜文政12年) | +2 |
・間宮 林蔵 | 1775年〜1844年 (安永4年〜弘化元年) | -2 |
・式亭 三馬 | 1776年〜1822年 (安永5年〜文政5年) | -3 |
徳川家斉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/23 02:40 UTC 版)
徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。8代将軍吉宗の曾孫。10代将軍家治は養父かつ従伯父(実父のいとこ)にあたる。
- ^ 『徳川禁令考』2398号
- ^ 藤田覚「一九世紀前半の日本 -国民国家形成の前提-」(初出:『岩波講座日本通史 15』(岩波書店、1995年) ISBN 978-4-00-010565-1/改題「近世後期政治史と朝幕関係」所収:藤田『近世政治史と天皇』(吉川弘文館、1999年) ISBN 978-4-642-03353-4 序章
- ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書、2005年5月、ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメ(BS-TBS、2015年3月9日放送)でも紹介された。
- ^ 岡義武「近代日本の政治家」岩波現代文庫、P7、平清盛などが入っていないのは引用元のとおり
- ^ 村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003 p.159
徳川 家斉(とくがわ いえなり)
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「御用牙」の記事における「徳川 家斉(とくがわ いえなり)」の解説
11代将軍。はじめ顔が見えず、御家人の窮状を速やかに汲むなどの好人物であったが、再登場時は遊興に耽って政務を疎かにする暗君になっていた。
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徳川家斉
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将軍職を家慶に譲って以降も実権を握る、江戸城西ノ丸の大御所。68歳。
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徳川家斉
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徳川家斉(とくがわ いえなり)
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「おしとね天繕」の記事における「徳川家斉(とくがわ いえなり)」の解説
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徳川家斉(とくがわ いえなり)
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「銀平飯科帳」の記事における「徳川家斉(とくがわ いえなり)」の解説
徳川家第11代征夷大将軍で食いしん坊。江戸城内で自ら焼き鳥(肉は鶴)を作っていた際に無断侵入した銀次と偶然出会い、「家さん・銀さん」の仲になる(当初銀二は彼の正体を知らず、下級の窓際役人だと思っていた)。以降銀次と江戸市中をお忍びで食べ歩くことを楽しみとする。銀二にしばらく会えずいら立つと長谷川邸を監視させて、平蔵と銀二が出掛けるタイミングを見計らって平蔵を緊急登城させ、偶然を装って銀二の前に姿を現すことを繰り返す。銀二を探して訪れた孤穴稲荷の井戸に落ちて、東京にタイムスリップしたことがある。
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「徳川 家斉」の例文・使い方・用例・文例
- これは徳川幕府への強烈な打撃となりました。
- 『カムイの剣』は、1868年の徳川将軍時代の崩壊と、明治天皇下での日本の復興という変革期を舞台にした、一種の侍/忍者物語だ。
- 徳川家の系図を列挙しなさい。
- 徳川幕府は1868年に終わりを告げた。
- 徳川幕府.
- この珍しい風習の起源は徳川時代にさかのぼる.
- 嘘で固めた徳川幕府
- 明治政府は徳川幕府の跡に立った
- 日本は徳川の世に栄えた
- 徳川に向かって弓を引く
- 日本外史は平氏から始まって徳川時代で終る
- 徳川幕府の治世に
- 徳川栄華録
- 徳川栄華録(書名にすれば)
- 家光は徳川三代の将軍
- 徳川時代
- 時の人は皆徳川の徳を謳歌した
- 日本外史は平氏から始まって徳川氏で終わる
- 徳川の四天王
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