田沼意誠とは? わかりやすく解説

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田沼意誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/07 04:20 UTC 版)

 
田沼意誠
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保6年(1721年
死没 安永2年12月19日1774年1月30日
改名 意誠
別名 専助、主水、市左衛門(通称
官位 従五位下、能登守
幕府 江戸幕府小姓
一橋家家老
主君 徳川宗尹
幕府、一橋家
氏族 田沼氏
父母 父:田沼意行、母:田代高近の養女・辰
兄弟 意次意誠、意満
正室:伊丹直賢の孫
意致石谷清豊
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田沼 意誠(たぬま おきのぶ、1721年享保6年) - 1774年1月30日安永2年12月19日[1])は、江戸時代中期の幕臣旗本)。田沼意行の次男。田沼意次の弟。妻は一橋家家老伊丹直賢の孫。子に一橋家家老から幕府御側御用取次まで昇進した意致、および石谷清定の養子となった石谷清豊[2]などがいる。

来歴

徳川吉宗側衆であった父・意行の次男として生まれる。吉宗が幕政を主導するために引き入れた紀州系幕臣としては第2世代に当たる。1732年享保17年)に徳川宗尹の小姓となる。1736年元文元年)に200俵取りとなり、後の御三卿の一つとなる一橋家に以後死去まで仕えることとなる。1746年(延享3年)、一橋家附切となる[3]1759年宝暦9年)に知行500石となり、2月9日には一橋家の家老に昇進、従五位下・能登守に叙任した。1770年明和7年)に300石を加増され、800石の旗本となった[4]。意誠が長く勤めた一橋家家老職には、1779年(安永7年)7月28日に子の意致目付から就任している[5]

田沼時代に権勢を誇った田沼意次の弟であり、意誠と子の意致はともに一橋家家老を歴任した。薩摩藩1762年(宝暦12年)2月に焼失した江戸上屋敷再建のために、幕府より拝借金を得ようとしたが、この時には意誠を通じて一橋家へ工作を行った。仙台藩伊達重村が中将への昇進工作をした時に1765年(明和2年)6月30日に重村の側役古田良智が田沼意次の用人・井上寛司に面会したときにも意誠が仲介を依頼されていた[4]。1770年(明和7年)に福井藩に対して大坂の大名貸し商人15軒から貸付が行われた件(目標の3万両は達成できず)は大坂町奉行所の強い斡旋があり、これは福井藩が一橋家へ運動を行った結果であり、意次に通じる弟意誠のパイプが利用されていたと考えられる[6]

官歴

脚注

  1. ^ 『新訂寛政重修諸家譜』18
  2. ^ 藤田覚『田沼時代』吉川弘文館、2012年
  3. ^ 武子裕美「御三卿の家臣団構造」2011年3月(『学習院史学49』学習院大学史学会)
  4. ^ a b 藤田覚『田沼意次』ミネルヴァ書房、2007年
  5. ^ 山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」1972年4月(『史学44(3)』慶應義塾大学)
  6. ^ 高槻泰郎「幕府米切手統制策と大阪金融市場-田沼意次の金融行政-[1]」2010年9月(『兼松セミナー 2010年度』神戸大学経済研究所)

関連項目




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