石谷清定 (豊前守)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/06 07:53 UTC 版)
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 延享3年(1746年) |
死没 | 不明 |
別名 | 清貞、左門、次郎左衛門、左衛門 |
官位 | 従五位下豊前守 |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 石谷氏 |
父母 | 父:石谷清昌、母:新見正言の娘 |
兄弟 | 多門、磯野政典の妻、石谷清定、石谷因清の妻、義妹:菅沼正虎の娘 |
妻 | 新見正則の娘、後妻:高井綽房の養女 |
子 | 娘(石谷清豊の妻)、娘(阿部正簡の妻)、石谷清常、娘 養子:石谷清豊(田沼意誠の子)、養女:亀井清絹の妻(亀井清亮の娘) |
石谷 清定(いしがや きよさだ、延享3年(1746年) - 没年不明)は江戸時代の旗本。
生涯
宝暦10年(1760年)4月28日、15歳の時、はじめて徳川家重に拝謁した。宝暦12年(1762年)9月28日御小姓組に列し、同年12月15日から江戸城西の丸に勤仕し将軍世子の徳川家基に仕えた。明和3年(1766年)2月27日御小納戸となり、同年3月27日から西の丸に勤務し、同年12月19日布衣の着用を許される。安永8年(1779年)に徳川家基が薨去したため、同年4月18日寄合に列した。天明元年(1781年)4月21日御小納戸に復帰し、同年5月28日から江戸城西の丸に仕えた。天明2年(1782年)12月24日、家督を継いだ。天明6年(1786年)閏10月7日より江戸城本丸に仕えた。寛政4年(1792年)12月24日、徳川家治の養女種姫の用人となったが、寛政6年(1794年)種姫の逝去により3月末日に勤めを解かれた。寛政7年(1795年)6月8日、西の丸の御小納戸となり、寛政9年(1797年)11月18日、従五位下豊前守に叙任された。
清定の後は、田沼意次の弟である田沼意誠の子、石谷清豊が清定の娘を妻として継いだ。[1]
参考文献
- 『寛政重修諸家譜』
- ^ 先妻の父親である新見正則の室(清定の母は正則の父である新見正言の娘であるため、この室は清定の姪にあたる)は田沼意次・意誠兄弟の妹であるため、清定にとって清豊は先妻の従兄弟にあたる。この先妻の姉妹である新見正則の別の娘は田沼意次の養女となり、大名家に嫁いでいる。
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