石谷清定_(豊前守)とは? わかりやすく解説

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石谷清定 (豊前守)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/04 05:24 UTC 版)

 
石谷清定
時代 江戸時代中期
生誕 延享3年(1746年
死没 不明
別名 清貞、左門、次郎左衛門、左衛門
官位 従五位下豊前
幕府 江戸幕府
氏族 石谷氏
父母 父:石谷清昌、母:新見正言の娘
兄弟 多門、磯野政典の妻、石谷清定石谷因清の妻、義妹:菅沼正虎の娘
新見正則の娘、後妻:高井綽房の養女
娘(石谷清豊の妻)、娘(阿部正簡の妻)、石谷清常、娘
養子:石谷清豊田沼意誠の子)、養女:亀井清絹の妻(亀井清亮の娘)
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石谷 清定(いしがや きよさだ、延享3年(1746年) - 没年不明)は江戸時代旗本

生涯

宝暦10年(1760年)4月28日、15歳の時、はじめて徳川家重に拝謁した。宝暦12年(1762年)9月28日御小姓組に列し、同年12月15日から江戸城西の丸に勤仕し将軍世子の徳川家基に仕えた。明和3年(1766年)2月27日御小納戸となり、同年3月27日から西の丸に勤務し、同年12月19日布衣の着用を許される。安永8年(1779年)に徳川家基が薨去したため、同年4月18日寄合に列した。天明元年(1781年)4月21日御小納戸に復帰し、同年5月28日から江戸城西の丸に仕えた。天明2年(1782年)12月24日、家督を継いだ。天明6年(1786年)閏10月7日より江戸城本丸に仕えた。寛政4年(1792年)12月24日、徳川家治の養女種姫の用人となったが、寛政6年(1794年)種姫の逝去により3月末日に勤めを解かれた。寛政7年(1795年)6月8日、西の丸の御小納戸となり、寛政9年(1797年)11月18日、従五位下豊前守に叙任された。

清定の後は、田沼意次の弟である田沼意誠の子、石谷清豊が清定の娘を妻として継いだ。[1]

脚注

  1. ^ 先妻の父親である新見正則の室(清定の母は正則の父である新見正言の娘であるため、この室は清定の姪にあたる)は田沼意次・意誠兄弟の妹であるため、清定にとって清豊は先妻の従兄弟にあたる。この先妻の姉妹である新見正則の別の娘は田沼意次の養女となり、大名家に嫁いでいる。

参考文献




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