先駆者たち
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大宝令が施行されても、しばらく太政大臣は任命されることがなかった。これはもちろん「尋常の職」ではなく「則闕の官」であることにもよるが、大友・高市のふたりの太政大臣の前例も影響を与えている。皇太子に匹敵するほどの高い権威を有する人物でなければ任命できない一方、うかつに任命すれば皇太子の権威を脅かす存在になりかねないからである。このため、太政大臣の任命が必要な場合でも、あえてこれを避け、太政官の長官という側面だけを抽出した令外官である知太政官事を設置することでしのぐことが続いた。ただ、藤原不比等をはじめ、死後に太政大臣を追贈された例はいくつか見られる。 結局、太政大臣が実際に任命されるのは、養老令の施行後、天平宝字4年(760年)1月の藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)の任命まで時期がくだることになる。ただし、この任命は、天平宝字2年(758年)8月から同8年(764年)9月までの、太政大臣を「太師」と改称した時期に当たり、押勝が就任したのはこの太師である。これに続いて、天平神護元年(765年)閏10月、道鏡が、出家した天皇(称徳天皇)には出家した大臣が必要であるという理由で天平宝字8年(764年)9月に彼のために新設された令外官である「大臣禅師」から昇進して「太政大臣禅師」に任命されている。両者は特殊なケースではあるが、中世・近世の有職故実においても、近現代の歴史学においても、太政大臣の歴代から排除されてはいない。
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先駆者たち
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「ペドロ・アルヴァレス・カブラル」の記事における「先駆者たち」の解説
今日ブラジルと呼ばれる地域に偶然辿り着いたヨーロッパ人としては、カブラルは最初の人物とは言い難い。南アメリカ全体で見た場合には尚更である。ブラジル北西に位置するベネズエラでは、古代に嵐で流されてきた船に由来すると推測される古代ローマのコインが見つかっている。ヴァイキングは北アメリカに到達しただけでなく入植まで成し遂げていたが、15世紀の終わりまでの何処かの時点でこれは終焉を迎えている。クリストファー・コロンブスは1498年に自身3度目となる新大陸遠征を行った際、現在のベネズエラに相当する地域を探索したと考えられる。 ブラジルについては、1498年にポルトガルの航海者ドゥアルテ・パチェコ・ペレイラ(英語版)がブラジル沿岸に至ったとされていた。しかしこの説は現在否定されており、ペレイラは北アメリカに到達したものと考えられている。比較的信憑性が高い記録としては、二人のスペイン人(ビセンテ・ヤーニェス・ピンソンとディエゴ・デ・レペ(スペイン語版))による、1500年1月から3月にかけてのブラジル北岸探検がある。この時ピンソンは、現在のカーボ・デ・サント・アゴスチーニョ(スペイン語版)(ブラジル・ペルナンブーコ州)付近からアマゾン川河口付近にかけての地域を探索した。レペは別のスペイン探検隊を率いており、1500年3月にオヤポック川(英語版)付近に至っている。彼らスペイン人探検家を差し置いてカブラルがブラジルの発見者と見なされているのは、ピンソンやレペの調査が簡略な内容に留まっており、その後への影響もほとんど無かったためである。アブレウ(英語版)やファルンハーゲン(英語版)、マリオ・バラータ、Hélio Viannaといった歴史学者たちは、こういったスペインの探検家について、その後に誕生した国家——南アメリカにあって唯一ポルトガル語を母語とし(ブラジルポルトガル語)、飛び抜けて興味深い歴史・文化・社会構造を持つイスパノアメリカ諸国の中でも特別な存在——に何ら影響を及ぼしていないと結論づけている。
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先駆者たち
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哲学者W・W・バートレー は注釈無しで、ニーバーの祈りと1695年のマザー・グースの韻文とを似たような感情を表現したものとして並列において考えている。 太陽の下にある全ての病は、治療法があるか、治療法が無いかだもし1つでもあったなら、それを探しなさいもし何も無かったなら、それは気にしないこと 8世紀のインドのナーランダ大僧院の僧侶、シャーンティデーヴァ(寂天)は似たような感情を表現した。 困難が我々を襲った時、治療法があったなら、落ち込まないといけない何の理由があるだろうかもし助けになるものが何もないなら落ち込むことが何の役に立つだろうか
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先駆者たち
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ルイ・パスツール (1822–1895) は、他の成功の一方で狂犬病の原因因子を発見することはできなかった。彼は、狂犬病の病原体は顕微鏡では検出できないほど小さいと推測していた。1884年に、フランスの微生物学者シャルル・シャンベラン(英語版)(1851–1931) は、今日シャンベラン型濾過器として知られている、細菌よりも小さい孔を持つフィルターを発明した。これによって、溶液に含まれる細菌をフィルターを通すことで完全に除去することが可能になった。 ヴァーヘニンゲンの農業試験場の指揮を執っていたアドルフ・エドゥアルト・マイヤー (1843–1942) は1876年、彼が「タバコモザイク病」と名付けた病気に感染性があることを示した。彼はそれが毒素か極めて小さな微生物によって引き起こされると考えていた。その後1892年に、ロシアの生物学者ドミトリー・イワノフスキー (1864–1920) は、シャンベラン型濾過器を利用し、現在タバコモザイクウイルスとして知られているものの研究を行った。彼の実験によって、感染したタバコの圧搾抽出液がフィルター濾過後も感染性を維持していることが示された。イワノフスキーは、感染が細菌の産生する毒素によって引き起こされると示唆したが、その考えを追究することはなかった。 ヴァーヘニンゲンの農学校の微生物学の教師であったマルティヌス・ベイエリンク (1851–1931) は1898年、マイヤーの実験を再現し、濾液には新しいタイプの感染因子が含まれていると確信した。彼はその因子が細胞分裂を行う細胞内でのみ増幅することを観察し、それを contagium vivum fluidum (生命を持った感染性の液体) と命名し「ウイルス」という語を再導入した。ベイエリンクはウイルスの実体は液体であると主張したが、後にアメリカの生化学者・ウイルス学者ウェンデル・スタンリー (1904–1971) によってウイルスが粒子であることが実証されると、彼の理論は信用を失った。同じ年に、フリードリヒ・レフラー (1852–1915) とパウル・フロッシュ (1860–1928) は、初めて動物のウイルスを同様のフィルターで濾過し、口蹄疫の原因を突き止めた。 1881年キューバの医師カルロス・フィンライ(英語版) (1833–1915) は、蚊が黄熱の原因を媒介していることを示す研究を発表し、その理論は1900年にウォルター・リード(英語版) (1851–1902) が率いる委員会によって証明された。1901年から1902年にかけて、ウィリアム・C・ゴーガス(英語版) (1854–1920) はキューバの蚊の繁殖地の破壊を計画し、この病気の蔓延を劇的に減少させた。ゴーガスは後にパナマからの蚊の根絶を計画し、それによってパナマ運河の開通は1914年に成し遂げられた。黄熱のウイルスは最終的に1932年にマックス・タイラー (1899–1972) によって単離され、彼はワクチンの開発に成功した。 1928年には、トーマス・ミルトン・リバーズ(英語版) (1888–1962) の編集によって既知のすべてのウイルスを網羅した小論集 Filterable Viruses が出版されるほど、多くのことが明らかになっていた。12歳のときに腸チフスに罹患したリバーズは、ウイルス学において優れたキャリアを歩んだ。1926年、彼はアメリカ微生物学会によって催された会合での講演に招かれ、そこで初めて「ウイルスは、その増殖が生きた細胞に依存しているという意味で、偏性寄生体であると思われる」と述べた。 ウイルスの粒子を観察した最初の人物はエディンバラの J. Buist であると推定されている。1886年に彼は痘苗の中に"micrococci"を見たと報告しているが、おそらくワクシニアウイルスの塊を観察したものと考えられる。その翌年、光学顕微鏡の進歩によって、ウイルスに感染した細胞の多くで封入体が形成されていることが観察されたが、これらのウイルス凝集物は詳細な構造を明らかにするにはまだ小さすぎた。1931年にドイツの技術者エルンスト・ルスカ (1906–1988) とマックス・クノール (1887–1969) による電子顕微鏡の発明によって、ウイルスの粒子、特にバクテリオファージが複雑な構造を持っていることがはじめて明らかにされた。この新しい顕微鏡によって決定されたウイルスのサイズは濾過実験から推定されていたものとよく一致した。ウイルスが小さいことは予想通りであったが、その大きさの幅については驚きを持って迎えられた。いくつかのウイルスは既知の最小の細菌よりも少しだけ小さい程度であったが、より小さなウイルスは複雑な有機分子と同程度のサイズであった。 1935年ウェンデル・スタンリーは、タバコモザイクウイルスがほぼタンパク質で構成されていることを発見した。1939年、スタンリーと Max Lauffer (1914–2012) はウイルスをタンパク質と核酸に分離し、スタンリーのもとの博士研究員 Hubert S. Loring (1908–1974) によってその核酸が RNA であることが示された。粒子中の RNA の発見は重要であった。1928年にフレデリック・グリフィス (1879–1941) が類似物質の DNA が遺伝子の実体であることの発見につながる最初の証拠 (グリフィスの実験) を示していたからである。 パスツールの時代から死後にかけて、「ウイルス」という単語は感染症のあらゆる原因を指す語として用いられていた。細菌学者たちはすぐに多数の感染の原因を突き止めた。しかしながら、いくつかの感染症については、その多くは恐ろしいものであったが、病原体となる細菌を発見することはできなかった。これらの病原体は目に見えず、生きた生物の中でのみ生育した。ウイルスの発見は、これら不思議な感染の秘密を閉じ込めていた扉を開けた鍵であった。これらの感染症の多くはコッホの原則を満たさないものであったが、このことで先駆的なウイルス学者たちが感染症のウイルス探しを止めることはなかった。
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