フス戦争とフス派王とは? わかりやすく解説

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フス戦争とフス派王(15世紀)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:46 UTC 版)

ボヘミア王国」の記事における「フス戦争とフス派王(15世紀)」の解説

フス派」および「フス戦争」も参照 1402年から1485年にかけてのフス派活動は、宗教改革運動に留まらないチェコ民族運動の走りでもあった。ボヘミア宗教改革呼ばれる一連の宗教改革運動は、教皇権威挑戦しボヘミア地域教会独立試みるものだったフス派帝国教皇の間フス戦争勃発フス派4度わたってフス派十字軍撃退し、後のプロテスタント走りみなされている。十字軍兵士多くドイツ人であったことから、フス派チェコナショナリズム始まりみなされることがある。ただし、十字軍には多くハンガリー人チェコ人カトリック教徒参加していた。現代チェコ史上では、フス派反帝国、反ドイツ運動の端緒という地位与えられさらには長期的なチェコ・ドイツ民族対立一部みなされることすらある。 フス派ヴァーツラフ4世治世下で勃興したこの頃カトリック教会大シスマ状態にあって教皇権威著しく減退しており、帝国でも皇帝失政のために秩序失われていた。1403年プラハ・カレル大学教授となったヤン・フスは、イングランドジョン・ウィクリフの反教皇・反ヒエラルキー主義ロラード派)に共鳴し教会改革求め説教師として活躍するようになったフスは富、汚職カトリック教会ヒエラルキー否定しウィクリフ教義に従って聖職者清貧求めとともに聖餐において平信徒パンワイン両方を受ける二種聖餐提唱した。またフス聖書チェコ語翻訳しチェコ語ギリシア語、英語に次いで現代一般に話されている言語の中では3番目に聖書全文翻訳なされた言語となったドイツ人神学教授たちはフスウィクリフ批判強要したが、フス大学内のチェコ人派閥後押し受けてこれを拒絶した大学方針定め評議会ドイツ人3票に対してチェコ人は1票しかもっていなかったためチェコ人派閥敗れ[要出典]、プラハ・カレル大学正統カトリックを軸とし続けることになったその後数年間にわたり、地元民であるチェコ人自分たちの権利拡大するよう大学憲章改訂要求したヴァーツラフ4世がこの論争対し曖昧な態度をとったこともあり、対立激化する一方だった。当初彼はドイツ人要職につけようとしてチェコ人貴族反感を買い逆にフス後援者増やしてしまった。ドイツ人派閥は、プラハ大司教ズビニェク・ザイーツや、国内ドイツ人聖職者支持得ていた。しかし政治的に追い詰められヴァーツラフ4世は、変心してドイツ派からチェコ派に鞍替えし、今度宗教改革派と手を組んだ1409年1月18日ヴァーツラフ4世クトナー・ホラ勅令発し大学内のチェコ人に3票の投票権与え他の国民は1票と改めた。これによりフス大学主導権握り対してドイツ人教授生徒数千人プラハ・カレル大学離れ、彼らの多くマイセン辺境伯フリードリヒ4世頼ってライプツィヒ大学創立した大学内の闘争勝利したフスだったが、カトリック教会贖宥状販売批判したことで、売り上げ一部受け取っていた王の支持失った教皇庁プラハの聖務停止宣告して圧力をかけ、結果として1412年フス支持者たちは、大学の職を解かれプラハからも追放された。その後2年の間、フス巡回説教師としてボヘミア中をまわり、自身改革教義広めていった。1414年フスコンスタンツ公会議召還され到着後すぐに投獄された。彼は自説曲げないまま異端宣告を受け、生命保証されていたにもかかわらず1415年7月6日火刑処された。現在、この日はチェコ共和国祝日となっている。 フス処刑により、数十年に及ぶフス戦争勃発した1419年説教師ヤン・ジェリフスキー率いフス派市民第一次プラハ窓外投擲事件起こしドイツ人市長評議員殺害した。その報を受けたヴァーツラフ4世卒倒半月後に死んでしまった。その後継いでボヘミア王即位した弟のジクムント(ハンガリー王ジグモンド、後に神聖ローマ皇帝ジギスムント)は、コンスタンツ公会議の際にハンガリー王としてフス処刑主導した人物だった。しかしジクムントはハンガリー人ドイツ人の軍を率いていながらボヘミア王国での支配確立失敗したプラハでは暴動起き南部では傭兵隊ヤン・ジシュカ蜂起した宗教闘争瞬く間ボヘミア全土広まり、特にドイツ人支配していた諸都市では激し抗争起きたフス派チェコ人カトリックドイツ人互いに虐殺しあい、敗れたドイツ人たちはボヘミア以外の神聖ローマ帝国領に逃れた。ジクムントはボヘミアドイツハンガリーカトリック教徒率いて何度もフス派十字軍組織したが、ヤン・ジシュカ農民傭兵主体とする少数軍勢ウォーワゴン騎士突撃止め銃火器殺害する戦術導入し何度も皇帝や有力諸侯の軍を撃破したこの頃既に、フス派内では次々と分派誕生していた。ウトラキスト(両形式主義者)を名乗りカトリック教会との妥協視野に入れるボヘミア貴族穏健派がある一方で、南ボヘミア要害ターボル市を建設してターボル派名乗った過激派は、教会を完全に否定し聖書唯一の宗教権威とした。ヤン・ジシュカターボル派軍事指導者だった。フス戦争では、同じよう構図流れ繰り返された。まずジクムントらが十字軍ボヘミア侵攻させると、フス派穏健派過激派手を結び共同して十字軍撃退する。しかしひとたび脅威去ればフス派軍はカトリック教徒地域繰り出して略奪虐殺繰り広げた多く歴史家たちは、フス派狂信者として描いている。一方で、彼らはフス派権利存在そのもの否定する王や教皇戦い、自らの土地死守するナショナリスト萌芽ともいえる顔も持っていた。ジシュカ途中でオレープ派結成してターボル派と距離をとりつつ、カトリック軍と戦いながら城塞修道院襲いカトリック聖職者追い出して教会領を接収するとともにカトリック教徒フス派への改宗進めていった。しかし彼は1424年黒死病倒れターボル派大プロコプと小プロコプが跡を継ぎ積極的にドイツ侵攻し勢力拡大した一方で1433年ウトラキストバーゼル公会議代表団派遣しカトリック教会との和解図った1434年カトリック軍とウトラキスト軍は共同して過激派攻撃しリパニの戦い大小プロコプ討ち取って過激派フス派軍を壊滅させた。1436年バーゼルの誓約締結されフス派説教の自由、二種聖餐聖職者の不正排除各階級による裁判処罰といったプラハ四か条で示されフス派基本事項がすべてカトリック教会認められた。しかし教皇エウゲニウス4世バーゼルの誓約承認拒否したため、ボヘミアカトリックウトラキストの間には溝が残ったウトラキストボヘミア政権握ったことで、都市からはドイツ人裕福な市民姿を消した聖職者はその信条かかわらず財産貴族都市没収され影響力弱まった。 ジクムントと戦う過程で、ターボル派ボヘミア王国領域飛び出しモラヴィアシレジア、ルーサティア、さらには現在のスロバキアにあたる上ハンガリーにも進出したリパニの戦いの後、カトリック軍に追われチェコ人宗教難民大勢ここに流れ込み1438年から1453年にかけてフス派残党であるチェコ人貴族ヤン・イスクラが南スロバキアからゾーヨン(現ズヴォレン)、カッサ(現コシツェ)に至る地域支配したフス派軍事的影響チェコ語聖書普及は、後のスロバキアチェコの強い繋がり端緒となった。また一時期ポーランド王ヴワディスワフ2世援助受けていた関係でポーランド軍にもフス派参加しており、彼らはバルト海にまで到達した1437年にジクムントが死去すると、ボヘミアの諸階級はその遺志沿ってハプスブルク家アルブレヒトオーストリアアルブレヒト5世神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世)をボヘミア王とした。その死後遺児ラジスラフ・ポフロベク(ラディスラウス・ポストゥムス)が跡を継いだが、幼少だったためウトラキスト流れをくむ改革派貴族摂政となった。しかし貴族中にはカトリック留まり教皇忠誠を誓う者も残っており、内紛絶えなかった。 ラジスラフ・ポフロベクはオーストリアで後見人フリードリヒ(後のオーストリア大公フリードリヒ5世皇帝フリードリヒ3世)に幽閉されており、ボヘミアでは1452年以降穏健フス派指導者イジー・ス・ポジェブラト摂政として政権握った。彼は同じウトラキストのヤン・ロキツァナをプラハ大司教として、さらに過激派ターボル派残党チェコ改革教会取り込むことに成功したカトリック派はプラハ追い出された。1457年にラジスラフ・ポフロベクが白血病死去すると、ハンガリー議会マーチャーシュ1世ボヘミアマティアス1世コルヴィン)をハンガリー王に、ボヘミア階級イジーボヘミア王選出した。彼は大貴族ではあったが王家血筋ではなく、この国王選出教皇や他の王侯承認されなかった。 異端烙印押されてヨーロッパ・カトリック世界の中で孤立していたイジーは、ヨーロッパキリスト教諸国巨大な連合体形成し抗争止めるとともに団結してオスマン帝国対抗するという壮大な構想立てたその中では各邦が1票を握りフランス主導的な立場につくとされており、教皇には特別な地位与えなかった。[要出典]イジー1464年から1467年にかけて各国宮廷をめぐり自らの構想訴えたが、失敗終わった1465年カトリックボヘミア貴族はゼレナー・ホラ同盟を結び、イジーへの抵抗表した翌年教皇パウルス2世イジー破門しボヘミア臣民イジーへの服従義務解いた。これを受けて1468年ボヘミア戦争勃発しハンガリー王マーチャーシュ1世神聖ローマ皇帝となっていたオーストリア大公フリードリヒ3世侵攻受けたイジーマーチャーシュ1世モラヴィア大部分奪われたが、周囲反対押し切り1470年和平を結び、ヤギェウォ朝王子後継定めて1471年没した

※この「フス戦争とフス派王(15世紀)」の解説は、「ボヘミア王国」の解説の一部です。
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