フスタートの占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 22:41 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「フスタートの占領」の解説
使節団は6月26日にジャウハルの書簡を携えてフスタートへ戻った。しかし、まだ使節団が到着する前にもかかわらず、軍が受け入れを拒否し、ナイル川の渡河を阻止して戦うことを決意したという噂が広まった。書簡が公に読み上げられた時、特に軍の将卒が声高に反対を叫んだ。これに介入したワズィールのジャアファル・ブン・アル=フラートでさえ従うように説得することができなかった。ジャウハルはこれを受け、この遠征はビザンツ人に対するジハードであると宣言し、司法長官にその歩みを妨害する者は信仰の敵であり殺される可能性があることを確認させた。エジプト側ではニフリール・アッ=シュワイザーンがイフシーディーヤとカーフーリーヤの共同の軍司令官に選ばれた。ニフリールは6月28日にローダ島を占拠し、ジャウハルが野営地を築いたナイル川西岸のギーザとフスタートを結ぶ舟橋の通路を掌握した。 史料によって記録の詳細が異なっているため、その後の交戦の経過は不明瞭である。最初の交戦は6月29日に行われたが、ジャウハルは撤退を余儀なくされ、その後、他の場所から川を渡ることに決めた。史料にもよるものの、ナイル川の渡河はイフシード朝から離脱したグラームの一団によって提供された舟か、フスタートの守備隊を支援するために下エジプトより派遣されたイフシード朝の艦隊からジャアファル・ブン・ファッラーフ(英語版)が奪った舟によって行われた。ジャアファル・ブン・ファッラーフがファーティマ朝の軍の一部を率いて川を渡ったが、渡河が行われた正確な場所は不明である。マクリーズィーによれば、4人のイフシード朝軍の指揮官が部隊と共に上陸可能な地点の防御を強化するために派遣されたものの、ファーティマ朝の部隊は困難を伴いながらも川を渡ることに成功した。そして7月3日に双方の軍隊が衝突した。戦闘の詳細は不明であるが、ファーティマ朝軍に対抗するためにギーザから向かったイフシード朝軍の全軍が壊滅し、ファーティマ朝側が勝利を収めた。その後、イフシード朝の残存部隊はローダ島を放棄して散り散りになり、フスタートを去って安全な場所を求め、シリアまで逃亡した。 フスタートはこれらの出来事によって混乱状態に陥ったものの、その最中にファーティマ朝のダーワが現れて治安部隊(シュルタ(英語版))の長官と連絡を取り、降伏の印として街の至る所に白いファーティマ朝の旗を吊り下げた。その間にシュルタの長官が旗を掲げて鐘を鳴らしながら街頭を行進し、ムイッズがカリフであると宣言して回った。軍隊の抵抗はジャウハルのアマーンの破棄につながり、慣例に従って都市の略奪が認められた。その上でジャウハルはアマーンの再開に同意し、アブー・ジャアファル・ムスリムにアマーンの維持を委ねた。その一方でジャアファル・ブン・アル=フラートは逃亡した軍の指揮官の家を没収する任務を課された。 7月6日にジャアファル・ブン・アル=フラートとアブー・ジャアファル・ムスリムは有力な商人を引き連れて舟橋を渡り、ギーザにいるジャウハルを表敬した。同じ日の夜にファーティマ朝の軍隊が橋を渡り始め、フスタートから北へおよそ5キロメートルの地点に野営地を築いた。次の日に施しが行われることが告知され、財源はジャウハルがともに運んできた財貨から賄われた。軍隊のカーディーであるアリー・ブン・アル=ワリード・アル=イシュビーリーによって金銭が貧しい人々に施された。7月9日、ジャウハルはフスタートのアムル・ブン・アル=アース・モスクで行われた金曜礼拝を主導した。そこでスンニ派の説教師はアリー家の白の衣装に身を包んでメモにある馴染みのない文言を読み、フトバ(英語版)(説教)をムイッズの名において朗誦した。
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