フスタートへの進軍とギーザでの最初の戦い
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「ファーティマ朝のエジプト侵攻 (914年-915年)」の記事における「フスタートへの進軍とギーザでの最初の戦い」の解説
アレクサンドリア フスタート ギーザ ファイユーム・オアシス アル=ハンニーヤ 下エジプトにおける軍事行動の関連地の地図 12月初旬にナイル川の氾濫が収まり、川沿いに軍隊を進軍させることが可能になると、ファーティマ朝軍はフスタートに向けて二つの隊列に分かれて出発した。軍隊はフバーサの部隊が先行し、カーイムの部隊がその後方を進軍した。フスタートはナイル川の東岸に位置し、ローダ島とギーザに架かる舟橋が唯一の渡河の手段であったため、タキーンは守備隊とフスタートの住民を動員してギーザに要塞化された陣地を築いた。 12月13日にフスタートで最初の招集命令が下され、武器を持てる者は誰彼構わず舟橋へ駆けつけたものの、攻撃は起こらなかった。これは翌日にも繰り返されたが、さらに次の日になって初めてファーティマ朝軍が攻撃を仕掛けてきた。その後の戦闘ではタキーン配下のテュルク人弓騎兵がクターマ族の槍騎兵に大きな打撃を与えたことでアッバース朝軍が最終的に勝利した。エジプトの軍隊はクターマ族の軍隊を夜を徹して追跡したが、クターマ族の部隊が経験の浅い追跡中の部隊へ待ち伏せ攻撃を加えたことでファーティマ朝軍は完全な敗走からは免れることができた。アッバース朝側は警戒体制を保ち、翌日も誤った招集命令が発せられたが、その後の数日間は数度の小競り合いが起きたのみであった。ファーティマ朝軍の失敗にもかかわらず、エジプト人の一部(コプト教徒とイスラーム教徒の双方を含む)がカーイムと連絡を取り、ファーティマ朝側へ同調者の出る可能性が継続的に存在していることをカーイムへ伝えた。歴史家のハインツ・ハルム(英語版)によれば、恐らくフスタートにはファーティマ朝の宣教師(ダーイー(英語版))が既に存在していた。
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