フスの審判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:43 UTC 版)
公判のためにフスはフランシスコ会の修道院に移され、そこで人生最後の数週間を過ごした。1415年6月5日に初公判が開かれた。フスは、パレツ等に対抗した教会論を自著と認め、「もし自分が間違っていると証明されれば喜んで改める」と宣言した。公判では、フスには、自分に対する非難に短く要約して答えることしか許されなかった。彼はウィクリフを崇拝しており、自分の魂もいつかウィクリフと同じところに昇りたいと認めたものの、ウィクリフの聖餐論や45箇条の教義を擁護したことは否定した。 ジギスムントは異端者を擁護はしたくなかったので、フスに公判で罪を認め慈悲を請うようにと忠告した。6月8日の最後の裁判で、非難者側によって39項に及ぶ記述が読み上げられた。そのうち26項はフスの教会論から抜粋した記述で、7項はパレツに対抗するフスの論文からの抜粋で、残る6項はスタニスラフ・ツェ・ツノイマに対する論文からの抜粋だった。非難者側は、これらの教義が世の中に危険であると一文ずつ説明し、ジギスムントがフスに悪感情を持つように煽った。フスは再び、もし彼が間違っていると証明されたら従うと宣言し、より公平な審判と、彼の主張の理由を説明する時間を求めた。 しかし、フスはその場で4項目を認めるように要求された。 彼が今まで主張してきたことは誤っていた。 今までの主張を将来も放棄する。 今までの主張は撤回する。 今までの主張と反対のことを正しいと認める。 フスは、「今まで教えたこともない教義の撤回などできない」と答え、公判の非難は誤解に基づいており、己の良心に反する行動は取れないと訴えた。このようなフスの言動は、公判で好意的には受け取られなかった。 6月8日の公判の後、フスを翻意させるように数回の審問が行われたが、フスの意思は変わらなかった。ジギスムンドは政治的に判断し、フスがボヘミアに帰るのは危険で、異端者の処刑はみせしめとしていくらかの効果があると考えた。フスはすでに生き永らえる希望は持っておらず、心中では殉教を望んでいた。
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