背景 — 初期のファーティマ朝によるエジプト征服の試み
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「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「背景 — 初期のファーティマ朝によるエジプト征服の試み」の解説
アレクサンドリア フスタート イ フ シ ー ド 朝 バルカ カイラワーン フ ァ ー テ ィ マ 朝 イフリーキヤ シジルマーサ フェズ レオン王国 コルドバ トレド 後ウマイヤ朝 バレアレス諸島 西フランク王国 コルシカ島 サルデーニャ島 イタリア王国 ローマ ダルマチア パレルモ シチリア島 ビ ザ ン ツ 帝 国 ブルガリア帝国 コンスタンティノープル クレタ島 キリキア アレッポ キプロス島 ハムダーン朝 シリア ダマスクス ラムラ タラーブルス 950年頃の地中海世界の勢力図 909年にイフリーキヤでファーティマ朝(909年 - 1171年)が成立した。ファーティマ朝の始祖であるイスマーイール派の指導者は、その数年前に本拠地のシリアから逃がれ、自らの教宣員によるベルベル人のクターマ族への改宗運動が大きな成果を見せていたマグリブに向かった。そしてその指導者が姿を隠し続けている間に教宣員のアブー・アブドゥッラー・アッ=シーイーに率いられたクターマ族がアグラブ朝の支配を打倒した。その後に指導者は姿を現し、アブドゥッラー・アル=マフディー・ビッラーフ(英語版)と名乗り、自らをカリフと宣言した。アッバース朝の西縁における地方政権として留まることに甘んじていたアグラブ朝とは対照的に、ファーティマ朝はイスラーム世界の統一を主張した。ファーティマ朝のカリフはイスラームの開祖ムハンマドの娘でアリー・ブン・アビー・ターリブの妻であるファーティマの子孫であると主張し、同時にシーア派の一派であるイスマーイール派の指導者であり、その信者は地上における神の代理人であるイマームとしてのカリフの神聖な地位を認めていた。そのため、ファーティマ朝は政権の樹立をスンニ派のアッバース朝を打倒してイスラーム世界全体の指導者としての正当な地位を取り戻すための最初の段階であるとみなしていた。 このような王朝の理念に従い、イフリーキヤにおける支配の確立に続く次の目標を、シリアと敵対勢力のアッバース朝の本拠地であるイラクへ続く途上に位置するエジプトに定めた。カリフの後継者に指名されていたアル=カーイム・ビ=アムル・アッラーフ(英語版)の指揮の下で914年に最初のエジプトへの侵攻に乗り出した。ファーティマ朝の軍隊はバルカ(キレナイカ)、アレクサンドリア、そしてファイユーム・オアシス(英語版)を占領したものの、エジプトの首都であるフスタートの占領には失敗し、シリアとイラクからアッバース朝の援軍が到着した結果、915年には追い返されることになった。ファーティマ朝の二度目の侵攻は919年から921年にかけて実行された。軍隊は再びアレクサンドリアを占領したものの、フスタートの前で撃退され、海軍は破壊された。カーイムはファイユーム・オアシスへ移動したが、到着したばかりのアッバース朝の部隊を前にしてその地を放棄し、砂漠を越えてイフリーキヤへ撤退することを余儀なくされた。これらの初期の侵攻の試みが失敗に終わった原因は、主としてファーティマ朝の補給線が過度に拡大し、同時にアッバース朝の援軍が到着する前に決定的な成功を収められなかったことにあった。それでもなお、ファーティマ朝はエジプトを脅かす前進基地としてバルカを手に残した。 930年代にアッバース朝が広範囲にわたる深刻な危機に陥っていた時に、ファーティマ朝はエジプトで935年から936年にかけて続いた軍の派閥間の抗争に付け込んで再び行動を起こした。しかし、この抗争で勝利を収めたのはファーティマ朝ではなくトゥルク人の将軍のアル=イフシード・ムハンマド・ブン・トゥグジュだった。イフシードは名目上はアッバース朝の総督であったものの、エジプトとシリア南部の支配権を確立し、事実上の独立政権としてイフシード朝を成立させた。ファーティマ朝の軍隊は一時的にアレクサンドリアを占領したが、短期間でイフシードの軍隊によって追い返された。イフシードはエジプト占領後に起こったバグダードとの紛争中にファーティマ朝の支援を求めることをためらわず、自分の娘とカーイムの結婚による同盟さえ持ちかけていた。しかし、アッバース朝の宮廷がイフシードの統治と称号を再確認したことで、イフシードはこの提案を取り下げた。 ファーティマ朝側では930年代後半までに王朝を権力の座につけた当初の革命的な熱意が衰え、普遍的な統治の理念が忘れ去られたわけではなかったものの、943年から947年にかけて続いたベルベル人のハワーリジュ派の指導者であるアブー・ヤズィード(英語版)による大規模な反乱に直面したために、その歩みは中断されることになった。この反乱はファーティマ朝政権を崩壊寸前まで追い詰め、反乱を鎮圧した後においても、しばらくの間は地中海西部における地位の回復に専念していた。この間、エジプトは比較的平和な状態が保たれていた。946年にイフシードが死去した後、奴隷出身の黒人宦官でイフシードが軍の最高司令官に任命していた実力者のアブル=ミスク・カーフール(英語版)の手に権力が渡った。その後の20年間、カーフールはイフシードの息子たちが統治者の地位に就いていた裏で実権を握っていたが、966年には自らが統治者となって支配した。
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