ジャウハルの統治の評価とその後の経過
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「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「ジャウハルの統治の評価とその後の経過」の解説
ジャウハルの統治はエジプトの支配を確保することに概ね成功し、主にイスマーイール派の教義を課す際に慎重さと自制を見せたことで、新しい体制を地元住民に受け入れさせるという目標は大きく進展した 。しかしながら、壊滅的な結果に終わったシリアへの軍事行動とカルマト派の侵略の撃退、そしてエジプトの秩序の回復に向けた継続的な努力と新しい首都の建設は、人的資源と財政の莫大な支出を伴った。また、その間の数年間の混乱は、進行中であったエジプトの農業の回復とそこから徴税する政府の能力を低下させた。その結果、マイケル・ブレットの言葉を借りれば、「ジャウハルがフスタートの占領に成功を収めてから3年後、バグダードまで進出するという征服への期待、あるいは希望は打ち砕かれてしまった」。 972年5月に再占領したラムラを除き、シリアの大部分はファーティマ朝の支配の外に留まった。さらにそれだけではなく、ファーティマ朝は974年にカルマト派による二度目のエジプトへの侵攻に立ち向かわなければならなかった。再びナイルデルタ地帯がカルマト派に占領され、その間にアブー・ジャアファル・ムスリムの兄弟であるアフー・ムスリム(英語版)に率いられたカルマト派の別働隊がカイロを迂回してアシュートとアフミーム(英語版)の間の地点に拠点を作った。アフー・ムスリムの到来はそれまで友好的であったファーティマ朝とアシュラーフの関係を乱し、多くの著名なアシュラーフの一族の若い後継者たちがアフー・ムスリムの下に向かった。ファーティマ朝は再度首都の住民に武装を命じ、ムイッズの息子の一人であるアブドゥッラーの部隊がカルマト派の主力部隊を破壊することに成功した。最終的にファーティマ朝は二度目のカルマト派の襲撃を撃退したものの、ダマスクスを占領してシリアの大部分へ支配を拡大することに成功したのは、ムイッズの後継者であるアル=アズィーズ・ビッラーフ(英語版)(在位:975年 - 996年)の治世となってからであった。
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