ジャウメ3世:王国の滅亡
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「マヨルカ王国」の記事における「ジャウメ3世:王国の滅亡」の解説
ジャウメ2世が1311年に死去した後は、次男サンチョ1世が嗣いだが早世し、1324年サンチョの甥ジャウメ3世が王位を継承した。しかしわずか9歳での即位のため、摂政協議会を必要とした。当時、アラゴン王ハイメ2世がマヨルカ王位の返還を要求するなど難しい状況下での王位継承であり、摂政協議会は翌1325年、サンチョ1世時代にサルデーニャからの侵攻を防ぐために発生した莫大な負債をすべて支払い終えれば、アラゴンはマヨルカ王位継承権に関する主張を放棄するとハイメ2世に確約させた。この協定は王位継承に関する危機を解決したものの、王国を深刻な財政危機に陥れることになった。 アラゴンの強い影響下に置かれたうえ、アラゴン王アルフォンソ4世(慈悲王)の娘コンスタンサを妃に迎えたジャウメ3世の政策は、必然的にアラゴンと同等の方向性を強制されることとなる。サルデーニャの領有権をめぐって1329年から1336年にかけて行われたアラゴン対ジェノヴァの戦争にも巻き込まれ、多大な経済市場を失う結果となった。その結果、国内に新たな税を設けたり、領内ユダヤ人に科料を課すなどの方策が採られたものの、財政危機を解決するには程遠かった。 財政問題は終わりを見せず、1341年ついにアラゴン王ペドロ4世は国交を断絶、再びマヨルカへの侵攻を窺う気配となった。1343年、ペドロ4世はバレアレス諸島へ侵攻を開始、続いて翌1344年にはルシヨン、セルダーニュにも侵入した。これにより事実上マヨルカ王国は滅亡した。ジャウメ3世はもはやフランスにわずかに残る領土を守ることで精一杯であり、1349年10月25日リュクマヨールの戦いに敗れ、戦死した。これに伴い、マヨルカ王国は完全にアラゴン王国に併合される。
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