その後のマヨルカ王家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 06:28 UTC 版)
「マヨルカ王国」の記事における「その後のマヨルカ王家」の解説
マヨルカ王国の滅亡は必然的に当時の国際的な紛争すなわち英仏百年戦争へも若干の影響を与えることとなった。ジャウメ3世の子・ジャウメ4世はアラゴン王国軍に捕らえられ、1362年までバルセロナに幽閉されていたが、逃亡してナポリ女王ジョヴァンナ1世を頼り、翌年ジョヴァンナと結婚。領土を失ったまま「マヨルカ王」を称した。時にイングランドのエドワード黒太子は、カスティーリャ王国の内戦でフランスが支援するエンリケ2世(恩寵王)に敗れて亡命を余儀なくされたペドロ1世を支援してカスティーリャに遠征した。ジャウメ4世もこれに帯同し失地回復を図るが、従軍中に病にかかりエンリケの軍によって捕らわれてしまう。ジョヴァンナの尽力により解放され、ナポリに戻った。その後もアラゴンとカスティーリャの戦争に乗じて、故地ルシヨン・セルダーニュ回復を図るが、両者の和睦により失敗。カスティーリャに逃れ1375年失意のうちにソリアで病死した(毒殺ともいわれる)。 ジャウメ4世の死後、幻の「マヨルカ王位」は妹のイザベラが受け継ぐが、モンフェッラート侯国のジョヴァンニ2世に嫁いだ彼女が1406年フランスで死去したことで、マヨルカ王家は断絶した。
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