その後のヘイマエイ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 14:22 UTC 版)
「エルトフェットル」の記事における「その後のヘイマエイ」の解説
溶岩流は固化したとは言っても、溶岩自体のとても低い熱伝導率のため、その内部は年単位での長期間にわたって数百度を保ち続けることが出来る。噴火終了に続いて、科学者は、だんだん冷めていく溶岩流から地熱を抽出して地熱暖房(英語版)を賄う事が可能かどうかを調査し始めた。すぐに、実験的な地熱暖房システムが製作され、1974年までにの最初の住宅と接続された。地熱暖房開発計画はさらに数軒の家屋と病院にまで対象を拡大し、1979年には、溶岩流から熱を取り出すための4基の大型プラントを建設するまでになった。それぞれの地熱暖房プラントは、溶岩流の上に一辺がそれぞれ100メートル(330フィート)ある正方形に区切った区画から熱エネルギーを取り出した。水を溶岩流のまだ熱い部分にかけ流し、結果上がってきたスチームのかたちで熱を集めた。このプラントで40メガワットまで地熱発電により電力を取り出す事も可能だった。発電所近くにある島内全ての民家に熱水と共に熱電併給を開始された。 噴火により降り積もった、掃いて捨てる場所に困る程余りあるテフラは、島内にある小さな空港の滑走路を拡張するのに利用され、また200あまりの住宅を新築するのに埋め立てをするためにも利用された。1974年半ばまでに、噴火前に住んでいた島民の約半数が戻ってきていた。1975年3月までには80パーセントが帰島していた。新たな溶岩の防波堤で守られた港により、漁業・水産加工業は以前の活況を取り戻し、今日でのヘイマエイは同国内での最重要拠点漁港として生き残っており、同国の三分の一以上の水揚げはこの港からのものである。 噴火の終わりには、エルトフェットルは220メートル (720 ft) の標高があった。その後、風による侵食はもとより、降り積もったままの隙間が多い砂利山のようなテフラが崩落し、また自然に締め固めされることにより、この山の高さは18から20メートル (60 から 65 feet)低くなっている。島民は山の中腹以上の急傾斜なところを禿山として残している以外は、山裾で傾斜が緩い斜面になっているところに草を植えた。これは、更なる侵食に対して山を安定させるためである。草を植えたところを上へ上へと広げていき、最終的には隣にそびえるヘルガフェットル山と同様に、この山を大抵の火山がそうされているように芝生で全山を覆うことを計画している。
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