ジャウメ1世:建国とは? わかりやすく解説

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ジャウメ1世:建国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 06:28 UTC 版)

マヨルカ王国」の記事における「ジャウメ1世:建国」の解説

マヨルカ王国は「征服王」として知られるアラゴン国王ハイメ1世立てた国である。彼はイスラム支配下にあった地域占領邁進し1229年からバレアレス諸島マヨルカ島への侵攻開始する1232年にはメノルカ島1235年にはイビサ島制圧した長男アルフォンソ死後、彼は後妻ヨラーンとの間に儲けた2番目の男ハイメのために与える国として1262年マヨルカ領土ハイメ相続する意志書き留めた1276年ハイメ1世死去に伴いアラゴン王国王位嫡男ペドロペドロ3世大王))に継承されたが、遺書に従ってマヨルカ王国ハイメ相続されることとなり、ハイメマヨルカ王ジャウメ2世Jaimeスペイン語ハイメカタルーニャ語ではJaumeジャウメ)として即位した。また遺書では同時にマヨルカ王国アラゴン王国従属国であることも明記されていた。 マヨルカ王国主要部は、バレアレス諸島マヨルカ島メノルカ島イビサ島フォルメンテラ島などから構成されていた。しかしこうした島嶼部以外にも、マヨルカ国王同時にルシヨン伯領とセルダーニュ伯領、およびオクシタニア南フランスからスペイン北東部にかけての地域)内でハイメ1世獲得したモンペリエ統治権オーヴェルニュのCarlat子爵領、Aumelas男爵領保有した。 しかしハイメ1世の遺したこのような遺産こそが、まさにその後隣国翻弄され続けマヨルカ王国運命決めてしまったといえる。なぜなら地中海大陸散らばる王国飛び地は、当時しばしば領土紛争起こしていた2つ大国フランス王国カペー朝)・アラゴン王国領土合間存在したからである。この王国脆弱さ自覚していたハイメ1世は、在世中にセルダーニュを完全に征服して新し王国統合しようとした。またさらにサヴォイア家アメデーオの娘ベアトリーチェと息子ジャウメとの縁談進めたが、かなわなかった。

※この「ジャウメ1世:建国」の解説は、「マヨルカ王国」の解説の一部です。
「ジャウメ1世:建国」を含む「マヨルカ王国」の記事については、「マヨルカ王国」の概要を参照ください。

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