ジャウハルのアマーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 22:41 UTC 版)
「ファーティマ朝のエジプト征服」の記事における「ジャウハルのアマーン」の解説
エジプトの行政の中心地であり最大の都市であるフスタートはエジプトを支配するための鍵であった。ファーティマ朝は自身の経験からそのことをよく認識していた。以前の侵略ではファーティマ朝はエジプトの大部分を占領することに成功したものの、フスタートの占領に失敗したことが軍事行動の帰趨を決めた。ヤーコフ・レフは、イフシードがたどった道程と969年のジャウハルの成功を例に、反対に「地方を完全には占領下に置かなかったにもかかわらず、中心地を征服したことが国の運命を決定づけた」として、これをその証拠として挙げている。 6月初旬にフスタートの指導者の一団がその要求、特に個人の安全と財産、そして地位の保証を求める内容を記した一覧を作成し、その一覧を携えた使節団をジャウハルに派遣した。さらに、唯一大規模な軍事組織を率いていたイフシーディーヤの指導者であるニフリール・アッ=シュワイザーンが、これらの内容に加えて聖地であるメッカとマディーナの総督として自分を指名するように要求した。しかし、ヤーコフ・レフは、この要求は「非現実的」であり、明らかに「ファーティマ朝に特有な宗教面への敏感さに対する理解が完全に欠如」しているとしてこの要求の存在を否定している。使節団はアシュラーフ(英語版)の一族の指導者であるフサイン家(英語版)のアブー・ジャアファル・ムスリム(英語版)、ハサン家(英語版)のアブー・イスマーイール・アッ=ラッスィー、およびアッバース家のアブル=タイイブの3名、そしてフスタートの司法長官(カーディーの長官)であるアブー・ターヒル・アッ=ズフリーとファーティマ朝の教宣員を率いるアフマド・ブン・ナスルからなっていた。 国の平和的な降伏と引き換えに、ジャウハルはムイッズの代理人として安全を保障する令状(アマーン)とエジプトの全住民への公約を記した一覧を公布した。ヤーコフ・レフが指摘するように、アマーンは「新体制の政治的な計画と宣伝を記した声明書」であった。より具体的には、アマーンは東方のイスラーム世界における敵 — 明示はしていないもののビザンツ帝国を暗に示している — からイスラーム教徒を保護するために侵攻したという正当性を説明するための試みとして公表された。この声明は国内の工作員によってファーティマ朝にもたらされたエジプトの実情に関する詳細な情報を明らかにし、秩序の回復と巡礼路の保護、ないしは違法な徴税の撤廃や貨幣の質の改善といった新体制が取り組むべきいくつかの具体的な改善内容を提案していた。巡礼者を保護するという公約は、東洋学者のウィルファード・マーデルング(英語版)の言葉を借りれば、カルマト派に対する「明らさまな宣戦布告」であり、ジャウハルは文章の中でその名前を明記して罵っている。イスラームの宗教者層(説教師や法学者など)に対しては、俸給を支払い、既存のモスクを復旧し、新しいモスクの建設を約束することで懐柔を試みている。 最も重要な点は、イスラームの単一性、そして預言者とイスラームの初期の世代の「真のスンナ」への回帰を強調することによって文章を終えている点であり、それによってスンニ派とシーア派が共通して支持する立場に立っていることを主張している。しかし、その文章の言い回しはファーティマ朝の真の意図を隠していた。なぜならば、イスマーイール派の教義によれば、「真のスンナ」の真の継承者でありそれを解する者はファーティマ朝のイマームでありカリフとされていたためである。公の儀式と法学(フィクフ)における極めて重要な争点において、ファーティマ朝がイスマーイール派の教義に優先的な地位を与えようとしていたことはすぐに明らかとなった。しかしながら、このアマーンは当面の間の目的は達成した。ヤーコフ・レフは「全体的に見れば」としつつ、「エジプト社会の幅広い階層に訴えかける説得力のある文章であった」と述べている。
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