フス派の台頭
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「ヴェンツェル (神聖ローマ皇帝)」の記事における「フス派の台頭」の解説
教会大分裂終息のため公会議の提案・実現が近付く中、ボヘミア王としてウィクリフの思想を支持するヤン・フスとその支持者を保護したが、1403年にプラハ大司教に就任したローマ派のズビニェク・ザイーツがウィクリフ派(後のフス派)を摘発し始めると、1408年7月にザイーツへ圧力をかけプラハに異端は存在しないと虚偽の発表をさせた。これにはピサ教会会議開催に合わせた政治的思惑が絡んでおり、ヴェンツェルは教会会議を中立という形で支持する見返りにローマ王復帰を約束させ、教会会議と手を組む関係上国内に異端がいるというのは都合が悪いため、ウィクリフ派には見て見ぬふりを決め込んでいたのである。プラハ大学にいるウィクリフ派が中立を支持していたという事情もあり、大学の支持を背景に中立を貫く計算も働いていた。 だが、ザイーツ大司教はローマ教皇グレゴリウス12世支持を表明、ウィクリフ派の牙城と化したプラハ大学と対立、プラハ大学内部でもボヘミア外の教授・学生などで構成された「ドイツ国民団」がボヘミア出身の「ボヘミア国民団」と対立していた。ヴェンツェルは1409年にクトナー・ホラでボヘミア国民団に有利な裁定を下し(クトナー・ホラの勅令)、反発したドイツ国民団を追放(彼らは後にライプツィヒ大学へ移る)、1410年にウィクリフ派の台頭を恐れたザイーツが亡命して表面的にボヘミアは平穏になった。同年にループレヒトが死去、それに伴いジギスムントとヨープストがローマ王に立候補したが、翌1411年にヨープストも亡くなったためジギスムントがローマ王に選出された。 状況が一変したのは1412年、ピサの対立教皇ヨハネス23世(ピサ教会会議で選出されたアレクサンデル5世は1410年に死去)がナポリ王ラディズラーオ1世討伐のため、プラハで贖宥状を販売してからである。大学の有力者になっていたフスは贖宥状販売やそれを行ったヨハネス23世を非難したため、教皇から破門されたフスを庇い切れないと悟ったヴェンツェルはフスへプラハ退去を言い渡した。フスが去った後もヴェンツェルは大学の内紛を収めるべく調停を試みたが失敗、1414年になるとヨハネス23世から異端問題が解決しなければ十字軍派遣も辞さずという脅迫の書状が送られ、ボヘミアは徐々にヨーロッパから孤立していった。 ジギスムントがフスと交渉した末にフスはコンスタンツ公会議に赴きボヘミアを旅立ったが、公会議で裁判に引き立てられたフスが1415年に処刑されると、ボヘミアのフス支持者(ウィクリフ派)は憤慨してフス派を形成、カトリックとの対立を強めていった。ヴェンツェルは異端排除を切望するジギスムントと新教皇マルティヌス5世の圧力を受けて右往左往していたが、1419年2月にジギスムントらに譲歩しプラハの教会をカトリックへ返還、フス派の教会を3つしか残さないとする決定を下した。これが引き金となり、7月30日に激怒したフス派が起こした第一次プラハ窓外投擲事件を契機に、ボヘミアはフス戦争へと突入していく。ヴェンツェルは事件の知らせを聞いてショックで卒中を起こし、8月16日に死んでしまった。58歳だった。 1370年にバイエルン公アルブレヒト1世(ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の五男)の娘ヨハンナ(1362年頃 - 1386年)と結婚し、死別後1389年にヨハンナの従兄バイエルン=ミュンヘン公ヨハン2世(アルブレヒト1世の甥)の娘ゾフィー(1376年 - 1428年)と再婚した。いずれの結婚でも子が得られず、ヴェンツェルの死後はジギスムントが相続人となったが、ボヘミアにはフス戦争で長い間入れず、彼が名実共にボヘミア王になるにはフス戦争終結後の1436年までかかった。
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