マイセンの戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マイセンの戦いの意味・解説 

マイセンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/08 14:36 UTC 版)

マイセンの戦い
戦争七年戦争
年月日1759年12月3日
場所ザクセン選帝侯領マイセン
結果:ハプスブルク帝国の勝利
交戦勢力
ハプスブルク帝国 プロイセン王国
指導者・指揮官
フィリップ・レヴァン・フォン・ベック クリスティアン・フリードリヒ・フォン・ディーリッケドイツ語版
戦力
4,000
損害
捕虜1,500

マイセンの戦い(マイセンのたたかい、ドイツ語: Schlacht von Meissen)は、七年戦争中の1759年12月3日[1]ザクセン選帝侯領マイセンにおいてクリスティアン・フリードリヒ・フォン・ディーリッケドイツ語版率いるプロイセン軍がオーストリア軍に敗北した戦闘。

背景

オーストリア軍の指揮官レオポルト・フォン・ダウンは1759年11月20日にマクセンの戦いで勝利した後、プロイセン軍のドレスデン占領を防ぐために軍事行動を続けていた。プロイセン王フリードリヒ2世は自軍がクネルスドルフの戦いの損害から回復していないにもかかわらず、冬営に入れず厳しい戦闘を続かざるをえなかった。

経過

ダウンはフィリップ・レヴァン・フォン・ベック率いる分遣隊を派遣してドレスデン北西のマイセンクリスティアン・フリードリヒ・フォン・ディーリッケドイツ語版率いるプロイセン軍を包囲した。数で負けていたディーリッケはエルベ川を渡って撤退しようとしたが、川が氷結していたためオーストリア軍の追撃を受け、1,500人が捕虜にされた[2]

その後

オーストリア軍が勝利したことでザクセン選帝侯の脱落が防がれたが、それ以上の進展はなかった。1760年2月20日、ベックはクロアチア騎兵2千を率いてコスドルフの戦いで再びプロイセン軍に勝利、エルンスト・ハインリヒ・フォン・チェットリッツドイツ語版を捕虜にした。フリードリヒ2世はチェットリッツとディーリッケが釈放された後、2人を中将に昇進させた。

脚注

  1. ^ Beauvais, Louis Albert (1855). Études françaises de littérature militaire. Duncker et Humblot. https://books.google.com/books?id=HSpH6bl5wGYC&pg=PA87. (フランス語)
  2. ^ Friedrich August von Retzow, Nouveaux mémoires historiques sur la Guerre de Sept Ans, Volume 2, 1803, p. 219.



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

マイセンの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マイセンの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマイセンの戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS