クローステル・ツェーヴェン協定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/19 14:01 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動クローステル・ツェーヴェン協定(独: Konvention von Kloster Zeven)もしくはクロスター・セヴン協定(英: Convention of Kloster-Zeven)とは、七年戦争中の1757年9月8日 (~9月10日) [1]にイギリスとフランスのあいだで結ばれた休戦協定である。とはいってもこれは前線の軍司令官同士で取り決めただけで両国ともに政府が承認しなかったため、同年末には消滅していた。調印がツェーヴェンの廃修道院で行われたためこの名がある (クローステルは修道院の意)。
概要
七年戦争開戦後、カンバーランド公率いるイギリスと北ドイツ諸侯の連合軍はデストレのフランス軍に対して劣勢であり、ずるずると後退を続けた。ハステンベックの戦いにも敗れてついにはハノーファー防衛もできなくなった連合軍は、デストレと交代したリシュリュー公爵に追い詰められてデンマーク領との境まで後退し、もはや逃げ場もなくなった。
このような場合に備えてジョージ2世は、ピットなどの大臣たちには秘密で、カンバーランド公にフランスと交渉してもよいという内諾を与えておいた。一方リシュリューのほうもプロイセンに対して戦力を振り向けるためザクセンに軍勢を派遣せねばならず、交渉に積極的であった。デンマークの仲介をもとに交渉が行われ、休戦が合意された。
この協定で連合軍は解体されることになり、イギリスと帝国諸侯は大陸での戦争から離脱し、兵士たちはそれぞれの国へ帰還できるが、ハノーファーはフランスの保障占領下におかれた。リシュリューは北ドイツに冬営のための拠点を確保できて満足したが、敵軍の武装解除も兵士の捕虜化も行わなかったから、本国からこの協定を認められなかった。リシュリューは冬季休暇で一時帰還する、という名目で本国に帰ったが、再びドイツに派遣されることはなかった。
一方イギリスでもこの協定は認められるものではなかった。政府は同盟国であるプロイセンの抗議を受け、また自らも大陸の戦いから離脱する気はなかったからである。ピットから問い詰められたジョージ2世は、こんな内容の協定を結ぶ許しは与えていないと強弁してカンバーランドを召還した。宮殿に参内したカンバーランドの顔を見るとジョージ2世は、「おお、我が息子だ。余を破滅させ、自分の顔に泥を塗った」と言って、あとは言葉を交わそうともしなかった。カンバーランドは司令官の職を辞して軍を引退した。
その後、フランスはせめて武装解除だけでもさせようと協定の再交渉を持ちかけたが、その前にロスバッハの戦いが起こってフランス軍はプロイセン軍に大敗したから、イギリスは俄然強気となり、交渉をはねつけて分散冬営中だったフランス軍を襲ってハノーファーから駆逐した。そして改めてドイツ諸侯軍を集合させて連合軍を組むと、終戦までフランス軍と戦った。
脚注
- ^ 日本の文献ではいずれも8日締結となっているが独語版では条件交渉が10日までかかったとしている。
クローステル・ツェーヴェン協定
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「ハノーファー侵攻 (1757年)」の記事における「クローステル・ツェーヴェン協定」の解説
詳細は「クローステル・ツェーヴェン協定」を参照 デンマーク王フレデリク5世は条約により、ブレーメン=フェルデン(英語版)が外国軍に脅かされている場合に軍を派遣する義務がある。フレデリク5世は中立を維持しようとしたため、リシュリュー公とカンバーランド公の仲介役を務めて合意を成立させようとした。自軍にクローステル・ツェーヴェンを攻撃する余力がないと考えたリシュリューと自軍の先が暗いと考えたカンバーランドは提案に同意した。 9月10日、イギリスとフランスはクローステル・ツェーヴェン協定を締結して停戦した。停戦の条件はブラウンシュヴァイクとヘッセンの派遣軍が本国に戻り、ハノーファー軍の半分がシュターデに留め置かれ、残りの半分がエルベ川を渡って撤退する、というものだった。ハノーファーの大半は一部の非軍事地帯を除いてフランスの占領下におかれた。フランス軍はイギリス艦隊がヴェーザー川から撤退することを条件にブレーメンから撤退した。しかし、一部の問題はあやふやのまま終わり、後に紛争を招いた。協定が締結された後、監視軍は散らばり始めたが、武装解除は要求されなかった。一方、フランス軍は協定に違反してヘッセン軍の一部を強制武装解除した。 協定はすぐにイギリスで攻撃された。ジョージ2世はカンバーランド公に条約交渉の権利を与えたにもかかわらず、激怒して10月にカンバーランド公をロンドンに呼び戻し、彼に全ての軍職を辞めさせた。リシュリューも条約が緩やかすぎるとしてパリで批判された。リシュリューはプロイセンへの全面攻撃を行うには時期が遅すぎたとして翌年まで待つと考え、プロイセンのマクデブルク要塞の包囲を命じられたにもかかわらずハルベルシュタット(英語版)付近で冬営に入った。 イギリス政府はクローステル・ツェーヴェン協定がプロイセンとの協定に違反するとして、クローステル・ツェーヴェン協定を守る義務がないと宣言した。イギリス政府は同時にジョージ2世とハノーファーの閣僚を説得して協定の破棄と再参戦に同意させようとした。10月8日、ジョージ2世はフランスが帰国するヘッセン軍に干渉したことを理由として条約を無効とした。フランスも協定に不満だったため、戦闘の再開を準備した。 ハノーファーはイギリスの支持を受けて監視軍を再編成、プロイセンの軍人フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルを監視軍の指揮官に任命した。イギリスはハノーファー軍やほかの派遣軍の費用支払いに同意した。それまでイギリスが大陸での戦争への資金援助に反対してきたウィリアム・ピットが政策を変えた瞬間であるが、彼はイギリス軍をフェルディナントの軍勢に派遣することに引き続き反対した。
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