クローステル・ツェーヴェン協定
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クローステル・ツェーヴェン協定(独: Konvention von Kloster Zeven)もしくはクロスター・セヴン協定(英: Convention of Kloster-Zeven)とは、七年戦争中の1757年9月8日 (~9月10日) [1]にイギリスとフランスのあいだで結ばれた休戦協定である。とはいってもこれは前線の軍司令官同士で取り決めただけで両国ともに政府が承認しなかったため、同年末には消滅していた。調印がツェーヴェンの廃修道院で行われたためこの名がある (クローステルは修道院の意)。
- ^ 日本の文献ではいずれも8日締結となっているが独語版では条件交渉が10日までかかったとしている。
- 1 クローステル・ツェーヴェン協定とは
- 2 クローステル・ツェーヴェン協定の概要
クローステル・ツェーヴェン協定
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「ハノーファー侵攻 (1757年)」の記事における「クローステル・ツェーヴェン協定」の解説
詳細は「クローステル・ツェーヴェン協定」を参照 デンマーク王フレデリク5世は条約により、ブレーメン=フェルデン(英語版)が外国軍に脅かされている場合に軍を派遣する義務がある。フレデリク5世は中立を維持しようとしたため、リシュリュー公とカンバーランド公の仲介役を務めて合意を成立させようとした。自軍にクローステル・ツェーヴェンを攻撃する余力がないと考えたリシュリューと自軍の先が暗いと考えたカンバーランドは提案に同意した。 9月10日、イギリスとフランスはクローステル・ツェーヴェン協定を締結して停戦した。停戦の条件はブラウンシュヴァイクとヘッセンの派遣軍が本国に戻り、ハノーファー軍の半分がシュターデに留め置かれ、残りの半分がエルベ川を渡って撤退する、というものだった。ハノーファーの大半は一部の非軍事地帯を除いてフランスの占領下におかれた。フランス軍はイギリス艦隊がヴェーザー川から撤退することを条件にブレーメンから撤退した。しかし、一部の問題はあやふやのまま終わり、後に紛争を招いた。協定が締結された後、監視軍は散らばり始めたが、武装解除は要求されなかった。一方、フランス軍は協定に違反してヘッセン軍の一部を強制武装解除した。 協定はすぐにイギリスで攻撃された。ジョージ2世はカンバーランド公に条約交渉の権利を与えたにもかかわらず、激怒して10月にカンバーランド公をロンドンに呼び戻し、彼に全ての軍職を辞めさせた。リシュリューも条約が緩やかすぎるとしてパリで批判された。リシュリューはプロイセンへの全面攻撃を行うには時期が遅すぎたとして翌年まで待つと考え、プロイセンのマクデブルク要塞の包囲を命じられたにもかかわらずハルベルシュタット(英語版)付近で冬営に入った。 イギリス政府はクローステル・ツェーヴェン協定がプロイセンとの協定に違反するとして、クローステル・ツェーヴェン協定を守る義務がないと宣言した。イギリス政府は同時にジョージ2世とハノーファーの閣僚を説得して協定の破棄と再参戦に同意させようとした。10月8日、ジョージ2世はフランスが帰国するヘッセン軍に干渉したことを理由として条約を無効とした。フランスも協定に不満だったため、戦闘の再開を準備した。 ハノーファーはイギリスの支持を受けて監視軍を再編成、プロイセンの軍人フェルディナント・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテルを監視軍の指揮官に任命した。イギリスはハノーファー軍やほかの派遣軍の費用支払いに同意した。それまでイギリスが大陸での戦争への資金援助に反対してきたウィリアム・ピットが政策を変えた瞬間であるが、彼はイギリス軍をフェルディナントの軍勢に派遣することに引き続き反対した。
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