マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ_(1699-1757)とは? わかりやすく解説

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マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1699-1757)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/13 02:25 UTC 版)

マリア・ヨーゼファ
Maria Josepha
ポーランド王妃
ザクセン選帝侯妃
マリア・ヨーゼファ
在位 1733年2月1日 - 1757年11月17日
(ザクセン選帝侯妃)
1734年1月17日 - 1757年11月17日
(ポーランド王妃)

出生 1699年12月8日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーン
死去 (1757-11-17) 1757年11月17日(57歳没)
神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン
埋葬 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領ドレスデン大聖堂
配偶者 ポーランド王アウグスト3世ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世)
子女 一覧参照
家名 ハプスブルク家
父親 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世
母親 アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク
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マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒドイツ語名:Maria Josepha von Österreich, 1699年12月8日 - 1757年11月17日)は、ポーランド王アウグスト3世ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世)の妃。

ポーランド語名は、マリア・ユゼファ・ハブスブルザンカMaria Józefa Habsburżanka)。

生涯

神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世と皇后アマーリア・ヴィルヘルミーネの長女としてウィーンで生まれた。妹は皇帝カール7世バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト)の皇后マリア・アマーリエである。

父ヨーゼフ1世死後の1719年8月、ポーランド王アウグスト2世(ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世)の息子フリードリヒ・アウグストと結婚した。ポーランド継承戦争の後、夫はポーランド・リトアニア共和国の王位を継承した。アウグスト2世はハプスブルク家との縁組で、ザクセン選帝侯家の帝国内での地位の向上を期待していた。1740年のオーストリア継承戦争の際、アウグスト3世は妻の従妹であるマリア・テレジアの家督相続を支持しながらも妻の権利を主張してボヘミアに出兵したが、和平交渉の末に撤退した。その2年後、ザクセンはオーストリアと同盟した。

1757年、マリア・ヨーゼファはドレスデン脳梗塞で亡くなった。

子女

夫との間に14子があり、そのうち11人が成人した。

先代
クリスティアーネ
ザクセン選帝侯
1733年 - 1757年
次代
マリア・アントーニア
先代
カタジナ・オパリンスカ
ポーランド王妃
1734年 - 1757年
次代



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