マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒとは? わかりやすく解説

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マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/13 02:26 UTC 版)

マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒ
Maria Amalie von Österreich
神聖ローマ皇后
ボヘミア王妃
在位 1742年1月24日1745年1月20日
別称号 バイエルン選帝侯妃
オーストリア大公女

出生 1701年10月22日
神聖ローマ帝国
オーストリア大公国ウィーンホーフブルク宮殿
死去 (1756-12-11) 1756年12月11日(55歳没)
神聖ローマ帝国
バイエルン選帝侯領ミュンヘンニンフェンブルク宮殿
埋葬 神聖ローマ帝国
バイエルン選帝侯領、ミュンヘン、テアティナー教会
結婚 1722年10月5日 ウィーン
配偶者 神聖ローマ皇帝カール7世
子女 マクシミリアーネ
マリア・アントーニア
テレーゼ・ベネディクタ
マクシミリアン3世ヨーゼフ
ヨーゼフ・ルートヴィヒ・レオ
マリア・アンナ
マリア・ヨーゼファ
家名 ハプスブルク家
父親 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世
母親 アマーリア・ヴィルヘルミーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=カレンベルク
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マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒドイツ語: Maria Amalie von Österreich, 1701年10月22日 - 1756年12月11日)は、神聖ローマ皇帝カール7世バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト)の妃。皇帝ヨーゼフ1世と皇后アマーリア・ヴィルヘルミーネの次女(末子)。姉はザクセン選帝侯ポーランドアウグスト3世マリア・ヨーゼファ

生涯

父ヨーゼフ1世死後の1722年、バイエルン公子だったカール・アルブレヒトと結婚した。2人は7子をもうけた。

結婚に際し、マリア・アマーリエは自身のハプスブルク家継承権を放棄していた[1]。しかし、マリア・アマーリエは皇帝の娘という立場では、叔父カール6世の娘である従妹マリア・テレジアと同じであった。そのため、マリア・テレジアがハプスブルク家の家督を相続することになると、夫カール・アルブレヒト選帝侯は妻の権利を主張してオーストリア・バイエルン戦争を起こし、1741年チロルボヘミアを占領、同年にボヘミア王、翌1742年には神聖ローマ皇帝に即位した[2]

脚注

  1. ^ ツェルナー、p. 382
  2. ^ ツェルナー、p. 382 - 384

参考文献

  • エーリヒ・ツェルナー 『オーストリア史』 彩流社、2000年




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