ノバスコシアにおける不満
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/02/09 08:48 UTC 版)
「カンバーランド砦の戦い」の記事における「ノバスコシアにおける不満」の解説
ジョナサン・エディはマサチューセッツ湾植民地生まれで、砦のあるノバスコシアのカンバーランド郡住人だった。植民地議会の議員であるエディとジョン・アランが、この地域でのパトリオット側活動の中心であり、その活動はノバスコシアに幾つかある扇動温床の一つだった。他のパトリオット側活動としては、セントジョン川渓谷にあるサンベリー郡(現在はニューブランズウィック州)のモーガービルやコーブクイドがあり、またピクトウやパサマクォディ湾地域でも小さな動きがあったが、これらは現在のメイン州とニューブランズウィック州に分かれる地域だった。これら地域のパトリオットは相互に連絡を取っており、カンバーランドやモーガービルの者達は近隣のインディアン(パサマクォディ族、マリシート族およびミクマク族)を味方に引き入れようと活動していた。 エディは、13植民地からの軍事的支援があれば、ロイヤリストが優勢なノバスコシアを独立側に付けることができると考えた。1776年前半にはマサチューセッツ湾植民地に行ってその政治と軍事の指導者達にノバスコシアにおける動きに興味を持たせようと試み、一方ではアランがノバスコシアにおける関心を高めようとしていた。アランの仕事は、ゴーラム大佐とその部隊がカンバーランド砦を再度防御するために到着し、元ノバスコシア副知事でロイヤリスト指導者のマイケル・フランクリンが活動したことで、以前より難しくなった。エディは為す術無く6月にはノバスコシアに手ぶらで帰還し、ゴーラムが自分の首に賞金を掛けたことを知ることになった。「フェンシブル」と呼ばれたゴーラムの部隊によるカンバーランドでの動きが功を奏したので、パトリオットの活動は事実上地下に潜るしかなかった。その結果、活動の中心は一部モーガービルに遷った。フレンチ・インディアン戦争の古参兵であるゴーラムはインディアン社会にパトリオットが入っていくことを妨害することができた。ミクマク族はパトリオットの側に付くことを拒み、マリシート族およびパサマクォディ族は初めはパトリオットを支持したものの、最終的にはエディが期待したあるいは約束を取り付けたほどに数が集まらなかった。 エディは8月に再度マサチューセッツ湾植民地に向かった。第二次大陸会議とジョージ・ワシントンはエディの考え、すなわちノバスコシアにおける資金あるいはその他の軍事行動を支援するものを承認しなかったが、マサチューセッツ湾植民地議会を説得してカンバーランド砦攻撃のための幾らかの物資的支援を取り付けた(主にマスケット銃、弾薬、その他軍需物資)。 植民地会議はエディがメイン地区で徴兵を行うことも認めた。
※この「ノバスコシアにおける不満」の解説は、「カンバーランド砦の戦い」の解説の一部です。
「ノバスコシアにおける不満」を含む「カンバーランド砦の戦い」の記事については、「カンバーランド砦の戦い」の概要を参照ください。
- ノバスコシアにおける不満のページへのリンク