雷電に勝利した力士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:02 UTC 版)
雷電が現役時代に喫した黒星は僅かに10、他に上覧相撲での1敗がある。その詳細を以下に記す。 勝利力士取組勝利力士の当時の番付勝利力士の最高位備考陣幕嶋之助 1791年(寛政3年)上覧相撲 関脇 大関 結び前に行われた関脇同士の対戦で押し出しで勝利。記録の残る限りではここまで正攻法で雷電に勝利した力士はいない。初土俵から僅か2場所目での上覧相撲であることから雷電に緊張があったとの意見もあるが、平幕や幕下力士相手への取り零しでは無く、三役同士での敗戦も陣幕と柏戸のみである。 梶ヶ濱力右エ門 1791年(寛政3年)4月場所5日目 東前頭4枚目 前頭4枚目 雷電、自身初の本場所での黒星。 市野上浅右エ門 1793年(寛政5年)3月場所8日目 東二段目筆頭 大関 四股名は1勝目が「常山五郎吉」、2勝目が「花頂山五郎吉」。幕下在位での初顔合わせで番狂わせを演じ、入幕後に2勝目を挙げた。雷電はこの2敗を挟んで19連勝、43連勝、44連勝を記録しているため、この2敗が無ければ108連勝を達成している。花頂山は雷電不在の場所で優勝相当成績を2回記録、大関へ昇進して「市野上」と名乗ったが病気によって現役死した。 1797年(寛政9年)3月場所7日目 東前頭2枚目 鯱和三郎 1800年(寛政12年)10月場所初日 東二段目3枚目 前頭3枚目 雷電が喫した11敗(上覧相撲を含む)の中でも最大の番狂わせと言われており、取組前から力量の差が歴然だったことから席を立つ観客が多くいたという。鯱はぶちかますと見せかけて後ろに回り込み、向正面へ送り出して勝利、雷電の連勝を44で止める。偶然この相撲を見物していた安井大江丸は「負けてこそ 人にこそあれ 相撲取」と詠んでいる。鯱は幕内と二段目のエスカレーターで終わった力士であり、この一番は生涯の大殊勲となった。 柏戸宗五郎 1804年(文化元年)10月場所5日目 東小結 大関 柏戸は後に大関へ昇進し、晩年の雷電と渡り合った。直接対決でも柏戸の勝利は一度のみだが、13回の対戦で雷電の5勝1敗1分3預3無と名勝負を繰り広げた。雷電の現役最後の対戦相手ともなり、引き分けている。 春日山鹿右衛門 1805年(文化2年)10月場所6日目 東前頭筆頭 小結 前名を大綱、その名で8連敗の後、春日山に改名して破る。 音羽山峰右エ門 1806年(文化3年)2月場所4日目 東前頭4枚目 前頭3枚目 鏡岩濱之助 1808年(文化5年)10月場所4日目 東前頭3枚目 小結 雷電最後の皆勤場所で最後の白星を献上。 立神盤右エ門 1809年(文化6年)10月場所3日目 東前頭7枚目 関脇 江戸ヶ崎源弥 1810年(文化7年)10月場所5日目 東前頭筆頭 関脇 通算14度目の対戦で初勝利を挙げる(通算は1勝11敗2預)。雷電から勝利するまでの対戦回数14は、勝利力士では最多である。雷電、現役最後の白星献上。 雷電に勝利した力士はそれだけでも大相撲史に名を残したと言えるが、陣幕・市野上・柏戸の名が高い。音羽山は勝利して歌に詠まれ、め組の喧嘩で佐渡ケ嶽と居残り、火消しと闘って勝利をあげた。
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