雷電の黄金時代
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1793年(寛政5年)1月から銚子などの巡業を行い、江戸相撲3月場所は8日目に常山五郎吉戦で敗れるなど、8勝1敗に終わった。この頃から巡業の形態も変化が加わり、6月の掛川・袋井の巡業を経て、8月には松江へ小野川喜三郎ら藩外の力士を招き入れ、大規模な国内巡業を行った。御前相撲では小野川と対戦して五分の成績だった。同年10月場所では8勝1預1休で、初土俵以来6場所ぶりの優勝相当成績を挙げた。これ以降、出場した本場所で優勝を逃したのは僅か2場所である。 1794年(寛政6年)の帰省中に桜田火事が発生したが、松江藩の屋敷と雷電の自宅は被災を免れた。雷電はこれを受けて神田明神で義援興行を行った後、3月場所に出場する。当初、寺社奉行から上覧相撲が近いことを内示されたために勧進元は開催を急いだが、雷電は初日の出場が間に合わず休場となる。4月9日の上覧相撲では千歳川庄太夫を押し出しで下した後、「お好み相撲」では幕下・磐井川逸八と対戦して付き膝で勝利した。 1795年(寛政7年)の年始に江戸中をインフルエンザが猛威を振るい、この影響で1月9日に谷風が亡くなる。同年3月場所では雷電が大関に昇進し、全勝するも雨天続きとインフルエンザの影響により5日目で打ち切りとなった。1797年(寛政9年)3月場所7日目に花頂山五郎吉に敗れたが、花頂山は4年前に敗れた常山と同一人物で、雷電が2敗した唯一の対戦相手である。5月に入ると藩主・松平治郷が病に倒れ、鶴の一声で急遽松江に戻り、8月に治郷が回復するまで毎日のように御殿で相撲を奉仕したという。この時代の相撲は女人禁制を解除して幕下以下の取組のみ披露するのが慣例だったが、この場所では雷電、小野川が共に五人抜きを披露した。ところが、本場所終了後に小野川が現役引退を表明し、雷電の一強時代が続く。 1798年(寛政10年)6月からの奥州巡業に出発すると、片屋を庄内藩・秋田藩の力士が占めており、雷電らは客分格扱いとされた。その間に長女を亡くす悲劇に見舞われ、同年10月場所は小野川の久留米藩に代わって雷電から2勝目を挙げた花頂山の庄内藩が東方を支配し、両藩の家老が土俵下に控えて行司、親方衆を巻き込んで口論となるなど大荒れの場所となったが、これらの逆境を乗り越えて9勝1休の優勝相当成績を挙げた。しかし、場所中の11月7日に今度は父・半右衛門が死去する。雷電はその後、1799年(寛政11年)11月場所でも9勝1休の優勝相当成績を挙げ、休場した場所を除くと11場所連続での優勝相当成績という空前絶後の記録を打ち立てた。12月に藩から松江行きを命じられるが、体調不良により江戸に留まる。 雷電は年が明けた1800年(寛政12年)2月に改めて松江へ向かうが、江戸本場所の開催期日を延ばすように松江藩と出場交渉するも実らず、これに合わせて延期されていた大坂相撲には間に合ったものの、番付編成は既に雲州力士抜きで編成されていたために出場が叶わなかった。雷電は仕方なくそのまま北陸巡業へ向かい、実家に立ち寄って生家を立て替えている。同年10月場所初日に鯱和三郎に敗れ、江戸相撲での連勝が44で止まった。最終的に6勝1敗1預2休となり、優勝相当成績も無敗の千田川だった。 1802年(享和2年)2月、松江藩主・松平治郷が参勤交代で江戸へ向かった後、丸亀藩抱えの大関・平石七太夫が訪問しており、一行の出発前の合間を縫って2日間のみ興行を行うが、この興行は開催前日に急きょ決定したもので、文字の部分が白い凹番印刷の番付表となったうえ、雨雪によって客入りが悪かった。その後は浜田、広島を経由して九州へ向かい、4月には島原で半月ほど過ごす。この間に長崎で中国人と酒の飲み比べをして勝利し、書画や支那カバンを譲られた。長崎での興行は雨に降られ、10日間の興行を全て開催するのに1ヶ月を要した。
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