雷電の墓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:02 UTC 版)
赤坂報土寺 生前から雷電と親交があった縁で葬儀を引き受けたという。 臼井台 雷電は晩年を妻・八重の郷里である佐倉市臼井で過ごした。八重の菩提寺だった浄行寺跡の杉山家墓地には雷電自身と妻子の名を刻んだ墓がある。娘がともに供養されているのはここだけとなる。 大石村 関家の墓地。酒好きだった父半右衛門のために雷電が建てた盃・酒樽・膳箱をかたどった石塔と並んで建てられている。 松江 松江藩士として継承された関氏の墓所。遺髪が葬られたというが、後に掘り返された時には発見されず。 石尊之碑 上原家跡地に建立。双葉山定次の揮毫と雷電の手形があしらわれている。後に長野新幹線の開通によって移動させられる。 報土寺の鐘・鐘楼 東京都港区赤坂 文化年間に江戸の大火で一度消失したために雷電の支援を得て復元されたが、「天下無双雷電」と刻まれていたことと、前例のない異形(鐘を吊るす龍頭には二人の力士が四ツに取り組み、雷電の臍に向かって撞木を付くなど)のため、幕府から不届きであるとして取り壊された。二代目の鐘は明治末期に作られ、雷電寄進当時の鐘銘が写されたといわれる。太平洋戦争で軍部に供出されて行方不明となっていたが、平成になって戻ったものである。それぞれの一番鐘をついたのは、文化の復元時には雷電、明治に再現された時は大砲万右エ門、平成に帰還した時には千代の富士貢だった。なお、鐘樓の台座だけは雷電寄進当時のもので、鐘樓は平成になって再建されたものである。 雷電爲右エ門の墓(千葉県佐倉市) 雷電爲右エ門の墓(東京都港区) 雷電為右衛門の墓(長野県東御市) 手形 蜀山人が「百里をもおどろかすべき雷電の手形をもって通る関と里(関取)」と添えたものが有名で、生家のほかに十数枚が現存し、江戸払いを受ける直前となる「文化十一年四月四日」の日付のついたものを、相撲博物館が所蔵している。 雷電の燈籠と水引 長野県佐久市 雷電が望月の駒形神社で相撲をとり、灯籠を献納した。その時に使用したの雷電名入りの水引類も保存されている。 明香寺 静岡県袋井市 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1745年(寛政5年)[疑問点 – ノート]、雷電が巡業の折に立ち寄り、子宝を願って願をかけた。程なく娘が生まれたため、三清山を買ってこれを寺に寄進した。後に寺が洪水に見舞われた折、この山に移転する。現在も子宝の御利益があるとされるとともに、歴代の横綱の木像十数体が安置されている。
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