しゅ‐ろう【▽鐘楼】
しょう‐ろう【鐘楼】
鐘楼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/30 13:16 UTC 版)
鐘楼(しょうろう、しゅろう)とは、寺院や教会などにおいて鐘を設置するために設けられた施設。ただし、「鐘楼」と称していても東洋の鐘と西洋の鐘には様式に違いがあるほか、建築学の文献等では教会建築のカンパニーレ(鐘塔)は鐘楼と別に立項されることもあり様式的には違いがある[1]。
東洋の鐘楼
鐘楼(しょうろう、しゅろう)は寺院内において梵鐘を吊るすために設けられた建物をいう[2]。釣鐘堂[2]、鐘つき堂、鐘楼堂とも言う。また、梵鐘は撞くかねであり撞楼(しゅろう)という字をあてることもある[2]。
梵鐘ではなく太鼓を吊るした建物は鼓楼という[2]。ただし、鐘楼や鼓楼のすべてが楼造というわけではない[2]。
中国

著名なものに西安の鐘楼があり、陝西省西安市の城内の中心の東西南北4条の大街が交差するところに建てられている。明初の1384年に建造された。当初は現在の北広済街口にあり、鼓楼と並び立っていたが、1582年に現在地に移築された。
日本
日本の奈良時代の伽藍では経蔵と東西に向き合うような形で建てられた[2]。しかし平安時代以降になると伽藍での配置はさほど厳格ではなくなった[2]。
室町時代になると、山門と一体化し、鐘門となった事例もある[3]。
鐘をつくことは供養であるとされ、中宮寺の天寿国曼荼羅に入母屋造の鐘楼がある。その中には鐘が吊るされ、人が撞木でそれを撞くところが描かれている。古い例に法隆寺西院のものがある。切妻造、腰には組こうらんがめぐらされている。のちに、法隆寺東院、新薬師寺、石山寺のような袴腰造、東大寺のもののような吹放ち(ふきはなち)のものも現れた。
重い鐘を吊り下げることを前提とした建物のバランス構造となっていたため、戦時中に供出された鐘楼では重い石を吊り下げたとの話もある。
著名な鐘楼
- 法隆寺鐘楼 (国宝)
- 法隆寺東院鐘楼 (国宝)
- 東大寺鐘楼 (国宝)
- 妙成寺鐘楼 (重要文化財)
- 石山寺鐘楼 (重要文化財)
- 長谷寺鐘楼 (重要文化財)
- 霊山寺鐘楼 (重要文化財)
- 朝光寺鐘楼 (重要文化財)
- 長遠寺鐘楼 (重要文化財)
- 鶴林寺鐘楼 (重要文化財)
ギャラリー
西洋の鐘楼

カンパニーレ
「鐘楼」の語はカンパニーレ(イタリア語: campanile)のような教会建築において鐘を設置するための塔を指しても用いられる[4]。独立して建てられた鐘楼については、他言語でも多くイタリア語のcampanileの語が用いられる。
著名な鐘楼
脚注
関連項目
鐘楼(ピサの斜塔)
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「ピサのドゥオモ広場」の記事における「鐘楼(ピサの斜塔)」の解説
詳細は「ピサの斜塔」を参照 円筒形の8階建てで、階段は296段(※294段という説も)ある。高さは55m。円筒形の外径は約20m、内径は約4.5m。建物全体の総重量は、14,453t (推定)。 1173年8月9日に着工、幾度もの工事中断、1372年に完成、と非常に長い期間に渡って建築工事が行われた。工事が長引いた原因は、着工直後から始まった塔の傾きである。このため、塔は本来100m以上の高さを予定されていたが、約半分の高さでの完成を余儀なくされたといわれている。アルノ川が運んできた砂が含まれていたため、建物の基礎を深く作るには地盤が弱過ぎた事が、傾きが生じた主な原因とされている。塔は現在、中心線から南に向って約4m 、角度にして約3.99度傾いている。(工事前は5度) 16世紀に、ガリレオ・ガリレイによる落下の実験が行われたという伝説が残っているが、ガリレオがピサで実験を行った事実は無いとされている。 設計者は未だ分かっておらず、現在論争中。ボンナーノ・ピサーノ説が通説であるが、近年の研究では、ディオティ・サルヴィ説が有力。 近年傾斜の増加が著しくなったため、1990年に一時立ち入り禁止となった。そして2001年12月、10年間にわたる傾斜防止作業が終了し、一般公開を再開した。
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鐘楼
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