谷風を追う雷電
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:02 UTC 版)
雷電は結局、1790年(寛政2年)3月場所を欠場した。2場所連続の全休となり、藩主から江戸勤番の命が下ったために4月20日に江戸へ入り、5月24日から泉岳寺の花相撲に出場した。続いて参加した四谷での興行はさらに小規模な「稽古相撲」扱いで、寺社奉行の見分も不要という新しい形態での相撲だったという。その直後に病に倒れ、7月下旬から開始された北陸巡業には遅れて参加するが、柏崎・善光寺・熊谷・鴻巣と回る合間を縫って帰郷している。11月場所においてようやく江戸相撲における初土俵を踏み、雷電は谷風の後を追うように、柏戸を上回って関脇に付出されると、10日間の興行で8勝2預の優勝相当成績を挙げる。8日目の小野川喜三郎戦では雷電の寄り倒しと小野川の打っ棄りを巡って大物言いとなり、勝負検査役は預とした。雷電は自身が勝っていたとの思いが強かったらしく、『諸国相撲控(通称・雷電日記)』ではこの日の結果について、「小野川も投げ候」と記している。 江戸相撲でいきなり優勝相当成績を挙げた雷電は、1791年(寛政3年)に木更津での興行を終えて江戸へ戻り、同年4月場所に出場する。初日から3連勝と危なげなく白星を並べたところに上覧相撲によって本場所開催が中断される。当時の上覧相撲は本場所とは別物として考えられており、現在の天覧相撲のように本場所の途中(8日目)に設定されているわけではなかった。雷電は6月11日の上覧相撲で結び前に関脇・陣幕島之助と対戦するが、陣幕の立合いから一気ののど輪を受け、真一文字に土俵際まで押し込まれ、そのまま押し出しで敗れた。この敗戦が雷電にとって公式戦での初黒星となった。上覧相撲終了後に再開された本場所においても、5日目に前頭4枚目・梶ヶ濱力右エ門に敗れるなど、6勝1敗1無2休と物足りない成績に終わった。本場所終了後は藤沢で興行を行った後、大坂相撲の同年8月場所に出場して谷風に代わって大関を務め、江戸に戻ってから出場した同年11月場所では8勝1預1休の好成績を挙げた。 1792年(寛政4年)2月28日、雲州抱えの力士は藩主の命によって松江へ下ったため、雷電は江戸相撲の同年3月場所を全休した。3月下旬までの滞在期間中に御前で稽古相撲を行い、4月10日に大坂へ入ってから名古屋、大坂、京都と連続興行を行う。京都相撲では九紋竜との取組の途中、雷電を一目見ようと駆けつけた大勢の見物客の詰め過ぎと騒ぎ過ぎによって桟敷が落下、複数の怪我人が発生したことから取組は引き分けとされた。場所終了後には兄弟子・柏戸が死去、9月の大坂相撲は不入りで打ち切られた他、江戸相撲11月場所は大雪によって3日間で興行が打ち切られる(成績は2勝1休)など、この年の雷電は多忙な日々を極めた。その中で、臼井の甘酒屋の娘・はん(後の八重)と結婚し、麹町十丁目の長屋に新居を構えた。
※この「谷風を追う雷電」の解説は、「雷電爲右エ門」の解説の一部です。
「谷風を追う雷電」を含む「雷電爲右エ門」の記事については、「雷電爲右エ門」の概要を参照ください。
- 谷風を追う雷電のページへのリンク