上記2項目に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:15 UTC 版)
野長瀬氏から見て本家筋にあたるであろう稲沢氏の動向が上記の矛盾に関する参考になると思われる。稲沢氏は源氏の一族でありながら平家に従い、治承4年(1180年)には河内国石川源氏討伐に参加(指揮官は平盛澄と、稲沢盛経の従兄弟の子と思われる大夫判官源季貞)に参加。その後も源季貞に従い西国を転戦し、平家の滅亡に至る。その後、平家方であったことから落武者となったが、後に赦免があり、御家人の列に加えられたという。同じようなことが野長瀬経忠、頼忠の身にもあったのではなかろうか。そして赦免時に与えられた所領が近露庄であったとも考えられる。
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