徳川将軍家時代の大名
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元和元年(1615年)7月23日、家康から大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられる。領地に風雅な庭園楽山園を造る一方、養蚕など産業育成にも力を注いだ。既に嫡男の秀雄が病死していたため、四男・信良に上野小幡藩2万石を分知して、自らは京都に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送った。寛永5年(1628年)10月には、将軍・徳川家光より、江戸城での茶会に招待されている。 寛永7年(1630年)4月30日、京都北野邸で死去。享年73。実質的な隠居料であった大和宇陀郡の領地は、五男・高長が相続する。なお、高長の宇陀郡の相続については小幡織田家側から異論が出されている。
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