徳川将軍家へ伝来とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 徳川将軍家へ伝来の意味・解説 

徳川将軍家へ伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:41 UTC 版)

厚藤四郎」の記事における「徳川将軍家へ伝来」の解説

三十郎切腹後、厚藤四郎秀吉没収されたと考えられており、彼の死後形見分けとして毛利秀元拝領した1614年慶長19年11月には、秀元は白銀師の埋忠家に拵を新調させている。その後、秀元の嫡孫である綱元の代になり、江戸幕府4代将軍である徳川家綱願いにより1664年寛文4年2月28日献上された。また、綱元献上返礼として黄金千枚下賜された。その後江戸時代通して徳川将軍家伝わった8代将軍徳川吉宗本阿弥家命じて編纂させた名刀目録である『享保名物帳』の写本には第1類第2類2系統があるが、このうち第1類本阿弥家から吉宗献じた本の写し)は、冒頭にこの厚藤四郎収載している。また、1869年明治2年)に再編集された将軍家の『御腰物台帳』にも厚藤四郎記載残っている。 明治時代以降田安徳川家伝来していたようであり、1938年昭和13年)にかつて侍従長務めていた徳川達孝伯爵田安徳川家第9代当主)によって、宮内省を介してその秋に竣工予定であった帝室博物館(現・東京国立博物館)によって納められた。1955年昭和30年6月22日重要文化財指定され次いで1956年昭和31年6月28日国宝指定された。

※この「徳川将軍家へ伝来」の解説は、「厚藤四郎」の解説の一部です。
「徳川将軍家へ伝来」を含む「厚藤四郎」の記事については、「厚藤四郎」の概要を参照ください。


徳川将軍家へ伝来

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:41 UTC 版)

亀甲貞宗」の記事における「徳川将軍家へ伝来」の解説

1698年元禄11年)、徳川幕府五代将軍徳川綱吉尾張藩邸に臨む(御成)ことになった際、尾張徳川家では綱吉献上するのに適う刀剣探すことになった。そこで本阿弥家から発行された金二百折り紙が付く本作白羽の矢が立ち、尾張徳川家南部家に対して本作譲渡してもらうよう申し出た南部家でも親藩である尾張徳川家懇望を断るわけにはいかず、やむなく承諾して本作尾張徳川家へ贈ることになった。なお、本作譲ってもらえることになった尾張徳川家大い喜び南部家には本作譲渡返礼として道誉一文字太刀綾小路行光短刀贈ったその後同年3月18日綱吉御成の際に、首尾整えた尾張徳川家本作短刀の宗端正宗が献上された。 将軍家では、1704年宝永元年12月5日綱吉から新たに養子として来た家宣(後の六代将軍)に本作譲られた。1724年享保9年12月朔日八代将軍である吉宗が、自身嫡男家重(後の九代将軍)という名を授けるのに併せて本作譲られた。なお、吉宗本阿弥家命じて編纂させた名刀目録である『享保名物帳』にも、「御物」として徳川将軍家収蔵であることが示されている。 1740年元文5年12月15日には、家重自身嫡男家治(後の十代将軍)という名を授けるのに併せて本作譲られた。1762年宝暦12年11月朔日には、長子である竹千代(後の家基誕生お七夜にもお祝いとして与えられた。

※この「徳川将軍家へ伝来」の解説は、「亀甲貞宗」の解説の一部です。
「徳川将軍家へ伝来」を含む「亀甲貞宗」の記事については、「亀甲貞宗」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「徳川将軍家へ伝来」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「徳川将軍家へ伝来」の関連用語

1
10% |||||

徳川将軍家へ伝来のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



徳川将軍家へ伝来のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの厚藤四郎 (改訂履歴)、亀甲貞宗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS