徳川将軍家へ伝来
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三十郎の切腹後、厚藤四郎は秀吉に没収されたと考えられており、彼の死後に形見分けとして毛利秀元が拝領した。1614年(慶長19年)11月には、秀元は白銀師の埋忠家に拵を新調させている。その後、秀元の嫡孫である綱元の代になり、江戸幕府4代将軍である徳川家綱の願いにより1664年(寛文4年)2月28日に献上された。また、綱元は献上の返礼として黄金千枚を下賜された。その後、江戸時代を通して徳川将軍家に伝わった。8代将軍徳川吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』の写本には第1類・第2類の2系統があるが、このうち第1類(本阿弥家から吉宗に献じた本の写し)は、冒頭にこの厚藤四郎を収載している。また、1869年(明治2年)に再編集された将軍家の『御腰物台帳』にも厚藤四郎の記載が残っている。 明治時代以降は田安徳川家に伝来していたようであり、1938年(昭和13年)にかつて侍従長を務めていた徳川達孝伯爵(田安徳川家第9代当主)によって、宮内省を介してその秋に竣工予定であった帝室博物館(現・東京国立博物館)によって納められた。1955年(昭和30年)6月22日に重要文化財に指定され、次いで1956年(昭和31年)6月28日に国宝に指定された。
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徳川将軍家へ伝来
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1698年(元禄11年)、徳川幕府五代将軍徳川綱吉が尾張藩邸に臨む(御成)ことになった際、尾張徳川家では綱吉へ献上するのに適う刀剣を探すことになった。そこで本阿弥家から発行された金二百枚の折り紙が付く本作に白羽の矢が立ち、尾張徳川家は南部家に対して本作を譲渡してもらうよう申し出た。南部家でも親藩である尾張徳川家の懇望を断るわけにはいかず、やむなく承諾して本作が尾張徳川家へ贈ることになった。なお、本作を譲ってもらえることになった尾張徳川家は大いに喜び、南部家には本作譲渡の返礼として道誉一文字の太刀と綾小路行光の短刀を贈った。その後同年3月18日の綱吉御成の際に、首尾を整えた尾張徳川家は本作と短刀の宗端正宗が献上された。 将軍家では、1704年(宝永元年)12月5日に綱吉から新たに養子として来た家宣(後の六代将軍)に本作が譲られた。1724年(享保9年)12月朔日に八代将軍である吉宗が、自身の嫡男に家重(後の九代将軍)という名を授けるのに併せて本作が譲られた。なお、吉宗が本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』にも、「御物」として徳川将軍家の収蔵であることが示されている。 1740年(元文5年)12月15日には、家重が自身の嫡男に家治(後の十代将軍)という名を授けるのに併せて本作が譲られた。1762年(宝暦12年)11月朔日には、長子である竹千代(後の家基)誕生のお七夜にもお祝いとして与えられた。
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